“開拓”姉妹都市40周年の節目に(広報おびひろ平成30年9月号掲載)

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ページ番号1001584  更新日 2020年12月14日

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皆さんは、桜餅を包む「葉っぱ」を食べる派でしょうか、食べない派でしょうか。開拓姉妹都市の松崎町は、桜葉の生産量日本一を誇っています。多くの人が桜葉でイメージするのは桜餅だと思いますが、そばやパンなどさまざまな食品に使用され、海外にも輸出されているそうです。
松崎町とは、昭和53年に姉妹都市を締結し、子ども親善訪問団の相互派遣などの交流を続けています。今年、40周年を迎え、9月6日からは、私も市民の皆さんと松崎町を訪問し、伝統文化や開拓の歴史に触れる記念行事に参加する予定です。
伊豆松崎町で生まれた依田勉三が、明治16年、晩成社を率いて十勝・帯広に開拓の鍬くわを入れたことは、帯広では誰もが知るところですが、ふるさとでの知名度はかなり異なるようです。
過日、松崎町の長嶋町長が来られた時、勉三が開拓の祖として帯広で慕われていることに、ずいぶん驚いておられました。地元では、依田家は豪農として有名ですが、三男坊が北海道に渡ったことは、あまり知られていないそうです。町長の話を伺いながら、私たちにとって勉三とはどういう存在なのか、改めて考えさせられました。
明治初期、資金と小作人を集め、鉄道も道路もない未開の十勝野を開墾し、畑作、酪農、バターや澱でん粉ぷんの製造販売など、次々と新しい事業に挑んだ勉三。その多くが結果として失敗したにもかかわらず、最後までこの地にとどまったのはなぜなのでしょうか。
彼は、人が気付いていないものに目を向け、それまでにない価値を創り出すことに夢中になれる生粋の起業家だったのだと思います。事業自体は成功しなかったかもしれませんが、先が見えない「こと」や「もの」に果敢にチャレンジする情熱や姿勢、最後まで諦めない意地を、私たちは精神的な財産として、受け継いでいるのではないでしょうか。
勉三は、亡くなる前に、病床で「晩成社には何も残らぬ。しかし、十勝野には…」と言葉を切らしたといわれています。遠く離れた松崎町で生まれた男が、広大な十勝平野の開拓に挑戦し、苦難の道のりを歩み続けた末に、どのような想いを抱いて最期を迎えたのか、言葉にならなかった部分を想像してみたくなります。
勉三が、伝えたかったものは何なのか、節目の年に、「十勝野には…」に続く言葉を、皆さんがつくり、完成させてみませんか。

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政策推進部広報秘書室広報広聴課広報広聴係
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