第九章 合併以後(昭和32年以降)

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ページ番号1001429  更新日 2020年12月14日

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第一節 川西村・大正村との合併

人口10万人の帯広市出現

写真1
合併祝賀パレード(大正市街)

帯広市と近接地域との合併については古くから動きがあり、面積の狭い帯広市としては懸案の一つでもあった。川西村・大正村と帯広市の合併については、昭和25年(1950)に始まる川西村稲田地区住民の帯広市編入運動が導火線の役目を果たした。一進一退を繰り返していた時、吉村博が30年(1955)に公選制2人目の市長に当選、翌年9月に川西村は全村合併を議決し、さらに32年には大正村も合併を議決した。

かくて、昭和32年3月、川西・大正両村と帯広市の合併が内閣告示され、同年4月1日人口約10万人の帯広市が出現した。そして、同年6月15日、合併記念式典と祝賀の行事が執り行われた。

高度経済成長期からバブル崩壊

わが国では、敗戦後の復興期を経て昭和30年(1955)ころから高度経済成長期に入り、それは48年(1973)の第一次石油危機のころまで続いた。その後、曲折を経ながらも安定成長を持続したが、60年(1985)に円高不況、その翌年末から平成3年(1991)ころまではバブル景気、そして不況期に入り、それは長期に及んだ。高度経済成長期後、農村過疎化と都市の過密化が進行し、また公害や環境問題も浮上等々、帯広・十勝も例外ではなかった。

第二節 帯広市総合計画

第一期・第二期帯広市総合計画

写真2
「第1期帯広市総合計画」の
表紙(昭和34年策定)

帯広市は、川西・大正村との合併を契機として昭和34年(1959)に基本的都市づくりのための「第一期帯広市総合計画(十カ年計画)」を策定、これは38年に改訂されて「帯広市新総合計画(〜45年度まで)」となった。さらに、46年(1971)度から55年度までの「第二期帯広市総合計画(十カ年計画)」が策定され、内陸拠点都市帯広の基礎づくりから飛躍発展が期された。こうして、帯広市民の理想とする近代的田園都市を目指して“住み心地よい暮しに便利な生活環境づくり”のための諸施策が計画的に進められたが、そのころ(昭和30年〜49年)の市長は吉村博であった。

第三期帯広市総合計画

「第三期新帯広市総合計画」は、石油危機時代を境に情勢が変化したこともあって昭和54年(1979)度から63年度までの十カ年間を実施期間として策定され、帯広市の都市像として「豊かな自然と北方文化に根ざした活力あふれる十勝の中核都市開拓百年の歴史をふまえ、心のふれあいのあるまち」が掲げられた。そして、産業都市・北方文化都市・快適都市の建設を目指し、田本憲吾市長(昭和49年〜平成2年)のもとにその推進、実行に努力が傾注された。

第四期帯広市総合計画

また「第四期帯広市総合計画」は、平成元年(1989)度から12年度までを計画期間として策定されたが、その中で帯広市の都市像は「緑ひろがる北のフロンティア都市おびひろ」とされ、さらに活力ある産業都市・心豊かな生きがい都市・緑あふれる快適都市が目指された。高橋幹夫市長(平成2年〜10年)は、この計画を引き継ぎ鋭意その推進を図った。

第五期帯広市総合計画

さらに、砂川敏文が市長に当選した2年後の平成12年(2000)に「第五期帯広市総合計画(平成12年度から21年度まで)」が策定され、都市像として「人と自然が共生する可能性の大地新世紀を拓く田園都市おびひろ 緑ひろがる北のフロンティア」が掲げられた。そして、安心安全都市・産業複合都市・環境共生都市・生涯学習都市・広域連携都市をまちづくりの目標に据え、具体的な計画を立案してその実現に向けて推進してきた。また、ユニバーサルデザイン(人に優しい設計)思想をハード面とソフト面に生かすべく努力もなされた。

このように帯広市は、川西・大正村と合併直後の昭和34年吉村市長の時以来、総合計画を策定して計画的に内陸拠点都市づくりを進めてきている。

第三節 諸施設等の充実

官公庁・オフィス団地の造成と市街等

工場用地の譲渡と官公庁・オフィス団地の造成

写真3
帯広市役所(昭和33年1月竣工)

帯広の帝国製麻株式会社の工場(後の中央繊維株式会社帯広工場)用地は、長年にわたって西5条通りの西側南4丁目から南8丁目にかけて広い地積を占めていたが、市の発展につれて敷地の開放が叫ばれるようになった。その一部は、市役所新庁舎(昭和33年竣工)敷地となり、次いで市民会館建設用地(37年開館)となって40年(1965)には工場用地全部が市に譲渡された。ここは、官公庁・オフィス団地(開広団地)等として造成され、市役所・市民会館をはじめ勤労青少年ホーム・図書館・婦人センター・勤労者福祉センター・帯広税務署・帯広財務部・厚生病院・帯広建設会館などの近代的建物が次々に建設されて付近一帯の様相は一変した。

公共用地確保の経緯

写真4
帯広駅(昭和30年前後のころ)

振り返ると、明治26年(1893)から帯広市街予定地の区画が行われたが、その中にアメリカ合衆国のワシントンなどを参考にしたと考えられる公共用地が市内数カ所に“市民参加の原理”の機能化を期待して確保された。その時に、今の官公庁・オフィス団地辺りは公共用地として計画確保された所であり、ここにその理念が生かされた感がある。

大空団地の造成と駅前開発

写真5
帯広民衆駅(昭和47年)

また、農業試験場跡地の分譲開発や裁判所移転に伴う開発、さらには柏林台団地・大空団地の造成も進められた。緑ヶ丘には、昭和38年(1963)に道東で最初の動物園が開園し、その後児童会館や老人福祉センターがオープンした。

市は、都市改造事業として駅前地区一帯を38年から44年までに面目を一新させ、見違えるように改造した。それに華をそえたのは、41年秋の新装なった民衆駅であった。そして、西3条通りは拡幅され、またバスターミナルの建設、経済センターの竣工などにより市中心部の建物は一段と高層化した。なお、37年(1962)には、開基80年・市制施行30年の記念式典が、さらにその10年後にも開基・開市を祝う式典が挙行された。

上下水道・ごみ処理

上下水道

上水道については、昭和37年からさらなる拡張事業が進められ、45年(1970)からは音更町木野地域にも給水を始めた。また、札内川濁水問題を契機に稲田水源浄水場が56年(1981)に完成。さらに、将来の水需要に応えるため、市は近隣町村とともに新しい水源を札内川上流のダムに求めた(注、上下水道・ごみ処理のことについては、後述の「地方拠点都市、帯広圏」の項も参照されたい)。

近代的都市づくりのバロメーターのひとつとされている下水道工事は、34年(1959)からスタートし37年には帯広川下水終末処理場(東11条南2丁目)が着工、逐次拡張されたり、また新設されていった。

ごみ処理

ごみ処理制度は、31年から賦課制、42年から従量制、さらに45年から紙袋などによる収集となり、無料化が実施された。翌年からは可燃物は焼却、不燃物は埋立処理のため分別収集となり、平成9年(1997)からはリサイクル資源回収事業が実施されてきている。また、昭和42年には中島処理場、47年ごみ焼却の帯広清掃工場、53年粗大ごみ処理施設として帯広市破砕処理工場、同年の鈴蘭浄苑などの施設の設置によって快適な市民生活の環境づくりが進められてきた。

コミュニティーづくり

町内会活動の活発化

戦後、市民の自主的団体としての町内会・部落会の活動が活発化した。昭和36年(1961)には、帯広市青少年委員連絡協議会(平成11年から青少年育成者協議会)が発足、翌年帯広市防犯協会が設立され、町内会を母体にして実践活動が展開された。

さらに、43年(1968)には、町内会から交通安全推進委員を出し、全市的組織の交通安全推進委員連絡協議会を設けて交通事故防止のために運動を進めた。そして、町内会全体の組織化が検討され、49年(1974)に帯広市町内会連絡協議会となり、平成14年に組織の大改革により名称を町内会連合会に変更し現在に至っている。

老人クラブの結成

帯広の老人クラブの結成については、32年の老人大学帯広長寿会に始まっており、その後多くのクラブが結成され活動してきた。また、26年、福祉行政とは別に、市民の善意によって恵まれない市民の人々に愛の手を差し伸べるため、社会福祉協議会が設立され昭和42年からは社会福祉法人として活動を展開してきている。なお、その後コミュニティーセンターや福祉センター、農業センターが市内各所に設置され、市民に広く活用されている。

施設等の充実・市内の変化

昭和50年代

昭和50年(1975)代に、刑務所移転に伴う跡地の団地や8ヘクタールに及ぶグリーンパーク、さらに自由ヶ丘団地やマンモス団地西帯広ニュータウンの造成が始められた。また、課題解決のための帯広市公害センターも活動を展開、岩内自然の村も開村した。

57年(1982)には、先人の労苦をしのび発展の姿を回顧して、帯広開基100年・市制施行50年の記念式典が盛大に執り行われ、各種記念事業も実施された。
その事業のひとつに十勝郷土室を継承充実した博物館機能と、創造活動センターの機能を併せ持った帯広百年記念館(緑ヶ丘公園内)の開館がある。

また、北方圏農林博覧会(愛称、グリンピア’82、通称、十勝博)も旧帯広空港跡地で開催され、併催行事の第25回全国農業機械展もあって盛会であった。さらに、晩成社の労苦を再現した「十勝野」の上演は、市内アマチュア劇団の熱演で市民に大きな感動を与えた。

昭和60年代

60年(1985)代前半には、帯広市総合福祉センターや帯広市民文化ホールをはじめ、帯広の森体育館・スピードスケート場・アイスアリーナや帯広市畜産物加工研修センターなどが開設された。なお60年には、都市型ケーブルテレビ帯広シティケーブル(OCTV)が開局し市民にサービスを始めている。

平成時代

平成元年(1989)前後からは、西帯広方面の戸数・人口が急増し、小・中学校が相次いで新設された。4年には、市民待望の市役所新庁舎がオープン、この年に開基110年・市制施行60年の記念式典も執り行われた。

また、その前後に道立帯広美術館やとかちプラザ・農業技術センター・国際センター・森の交流館などが開館、さらには緑ヶ丘の野球場に代わった帯広の森野球場・ヤングセンターに代わる市民プールなども新設された。

8年(1996)には、懸案のJR高架が開通、新帯広駅がオープンし、駅前改造事業も進展して装いを一新した。また、11年(1999)から翌年にかけて、柏林台北町団地の10階建て1〜4号棟(260戸)が完成、市内の諸施設などが一層充実した。

写真6
帯広百年記念館(平成14年10月)
写真7
帯広市役所新庁舎(平成13年10月)

第四節 交通の発達

帯広空港開港

昭和39年(1964)、南町に待望久しかった帯広空港が開港し、札幌・帯広・釧路間が運航、翌年には東京便も就航した。47年には、運輸省航空大学校帯広分校が帯広空港横に設置されたが、練習機による騒音公害を起こし、それが引き金になって56年(1981)に、以平町と泉町に帯広新空港が開港。ジェット機の就航によって約90分で東京へ行けることになり、輸送力が強化された。

石勝線の開通と自動車の普及

また同年、道央と道東を結ぶ最短距離の新しい鉄道交通の動脈国鉄石勝線が開通。旅客はもちろん貨物輸送の能力は、これまでの根室線ルートに比べて飛躍的にアップした。その関係もあって61年に、帯広札幌線空の便は廃止となった。そして、62年(1987)には、自動車の普及などのこともあって十勝開拓・開発の交通の動脈として功績のあった士幌線と広尾線が廃止され、バス運行に切り替えられた。また、国鉄が分割・民営化され、JR北海道が業務を開始した。なお、平成に入ると都市間バス網が広がっている。また、十勝港が貨物取扱量を増大し、平成11年(1999)7月には国際貿易港として開港指定された。

平成3年(1991)には、札幌帯広間の国道274号が全線開通し、距離で約40キロも短縮された。また、愛国大橋・平原大橋が開通、その後三国峠が通年開通となり、さらにすずらん大橋・札内青柳大橋などが新たに架設されて自動車が一層スムースに流れるようになった。

航空路線

帯広と結ぶ新航空路線は、平成4年の大阪線をはじめ、後名古屋線、福島線、仙台線が開設されるとともに9年(1997)には、東京線に日本航空が新規就航して2社同一路線が実現した。しかし、仙台線は10年に、また福島線は12年に廃止されている。

なお、13年(2001)1月、帯広空港にエバー航空の台湾チャーター便が初めて就航。同年12月末までに同航空のほか中華航空、日本アジア航空の3社が往復計71便のチャーター便を運航し、計約1万3,000人の台湾の観光客が帯広空港を利用した。

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