第五章 二級町村制組合役場時代(明治35年~大正4年)
第一節 十勝唯一の町、帯広町
河西外二郡各村戸長役場は、明治33年(1900)と34年に組織が改変された。さらに35年4月には、下帯広村外八村(荊苞(ばらとう)・上帯広・伏古・幸震・売買・戸蔦・迫別(せまりべつ)・鵺抜(ぬえぬっき))が廃合され、帯広町と伏古村・幸震村・上帯広村・売買村の一町四村に整理された。
同年同月、これを組合として北海道二級町村制が施行され、帯広町外四村組合役場が帯広町に置かれた。その際に下帯広・荊苞は廃止されて帯広町になり、迫別は上帯広村に、戸蔦は売買村に、鵺抜は幸震村に併合された。
こうして帯広町は、十勝では唯一の町となった。
第二節 鉄道開通、大豆の躍進
鉄道開通と雑穀商の進出
明治38年(1905)待望の釧路帯広間の鉄道が開通し、初めての汽車が帯広停車場(帯広駅)に滑り込んできた。また40年には、狩勝トンネルの完成により旭川帯広間が開通、函館にまで通じた(注、明治38年帯広町と音更村間に私設有料の開成橋架設、音更・士幌方面のマメ類が馬車で帯広に入る。44年池田北見間鉄道開通、大正2年富良野滝川間鉄道開通)。
この鉄道開通により輸送費が安くなり、特に大豆などの販売が極めて有利になった。これまで、大津と釧路を取引場所としていた雑穀(マメ類)商は帯広に進出し、さらに小樽との結び付きを強めていった。
大豆の躍進と十勝の発展
鉄道開通の翌年、帯広停車場から積み出した農産物は14万俵にも上り、その内大豆が約12万5千俵という多さであった。明治35年(1902)十勝における大豆の作付面積(約7千4百ヘクタール)は畑全体の4割9分を占めるに至ったが、さらにその作付面積は38年約1万2千7百ヘクタール、44年約2万3千5百ヘクタール、大正4年(1915)には3万3千ヘクタールを突破(同年十勝から移出されたマメ類は約91万5千俵、その内大豆は約61万5千俵)、その躍進ぶりは目を見張るものがあった。
その背景としては、鉄道輸送の利便性と移住農民の増加、畑に不向きとされていた火山性土の高丘地が過燐酸石灰の使用により、またプラウ耕により、大豆の耕作面積が拡大されていった。
つまり、十勝の大豆をはじめとするマメ類は鉄道の開通等により、移出商品として市場で一層その地位を確かなものにし、十勝発展の要因になっていった。
なお、日露戦争直後の好況の時期もあったが、大豆は41年に虫害、翌年虫害と水害に遭って大きな被害を受けたり、大正元年(1912)と2年には、作物全体が大凶作に見舞われたり、何回もの水害を受けたりするなどひどい受難もあり、そこには苦渋の歩みがあった。
第三節 商業都市の形成
商業戸数の漸増と商圏の拡大
大正3年(1914)末の帯広町外四村(伏古村・売買村・上帯広村・幸震村)の戸数は約3,000戸であり、そのうち農業戸数は約1,100戸、官公吏および教員は約450戸、商業約440戸、労働約410戸、工業約130戸であった。商業戸数については、明治39年(1906)に約260戸であったのが、前述したように大正3年末には約440戸にもなり漸増ぶりが目立っている。
明治42年ころには、帯広町をはじめ売買・幸震・伏古・上帯広・音更村の6町村と幕別町の別奴(べっちゃろ)(白人(ちろっと)のやや西側)から途別に及ぶ範囲が帯広の商圏として拡大されていた。
農家に対しては、春先に肥料・農具・日用品などを利子を見込んで貸しておき、収穫が終わったらその雑穀(マメ類)などを買い受けて代金を差し引く、いわゆる仕込みがほとんどであった。
そして、商店街の中心地は、大通5・6丁目から駅前通りの方へと移りはじめた。
農業十勝を後押しする工業
なお、工業については、明治後期にマッチの製軸工場が近くのドロの木などを原料にして幸震村などで操業したが、まもなく原料不足のため閉鎖した。
しかし、同じころ澱粉工場が幸震・売買・上帯広村などで開設した。
さらに帯広には、製粉工場や酒・味噌・醤油醸造業があり、明治40年(1907)には、帝国製麻株式会社帯広工場が西5条5丁目で操業を開始、これらは農業十勝を後押しするものであった。
雑穀の街帯広・馬産地帯広
43年に帯広農産商組合、45年には十勝農産商組合、翌年には北海道東部雑穀同業組合が結成され、各所に検査所を置いて検査を始めたので、十勝の農産物は次第に信用を増していき、明治末から大正初期にかけて帯広は文字通り「雑穀(マメ類)の街」となった。
さらに明治39年には、十勝国産牛馬組合が結成されて帯広に事務所を持ち、43年に音更村駒場に陸軍省馬政局所管の十勝種馬牧場が開設されるに及んで、帯広は地の利を得て馬産地として確固とした立場を持つようになった。
牛馬セリ市場は古くから各所で臨時に開かれたが、大正4年(1915)に帯広の監獄用地の譲渡を受けて翌年定期市場を開設、近村はもちろん全国から関係者が集まり、その賑(にぎ)わいは祭りのようであった。
商工都市へ
要するに鉄道開通後、帯広町は十勝農業を基盤として農産物などの集散市場、消費や生産物資の供給・消費市場を中核として、これに付着する金融・輸送・サービス供給市場として、それらの諸機能をもつ「商業都市」としての基本的な性格を形成しはじめた。その担い手であった商人らは、下帯広村元村の形成のころから「もうひとつの開拓」として帯広発展に大きく寄与し、大正の中ごろになると帯広を商工都市として進展させた。
第四節 文化の足音
教育・文化
学校施設や説教所などは、移住民の後を追うようにして奥地へ奥地へと入っていった。
帯広小学校は、急激な学童増加により膨れに膨れ、創立後10年経つや経たずで道内屈指の規模(明治39年13学級、635人)をもつ小学校になった。また、37年(1904)には、アイヌ教育のための北海道庁立第二伏古尋常小学校(大正8年庁立日新尋常小学校と改称、昭和6年廃校)が伏古村に開校した。
40年には、十勝教育会(会長、支庁長)が創立され、蓄音機や活動写真映写機などを携えて管内を巡回、また大通1丁目の事務所に図書を配備して一般に公開したり回覧した。
電話開通と電力送電
さらに43年(1910)には、電話が帯広市内(家庭等)と市外(帯広・池田)で開通、大正2年(1913)には、東2条9丁目に帯広電灯株式会社が開業し木炭による火力発電をして翌年各家庭等に送電、淡い光であったが人々はランプ時代から解放されていった。
街の道路はいたずらに広く長く感ぜられ、両側につぶれたような軒なみが所々に洋風建ての家を交えていたが、次第に大通5〜8丁目辺りには、白壁の土蔵造りも見え始めた。
また、寺院も各所に新築され、小祠にすぎなかった各神社も整備されだした。帯広神社は、42年に現在地に仮殿を造営し、翌年札幌神社の分霊を迎えた。
当時の娯楽
娯楽に関しては、劇場朝倉座のほかに帯広亭という寄席ができて義太夫などの会場に使われ、芝居の触れ太鼓や活動写真のジンタが町を練り歩く日がだんだん多くなった。
また、各所で素人芝居が持てはやされた。琴・茶の湯・生け花などには、それぞれ師匠ができた。
なお、44年(1911)には、皇太子殿下(後の大正天皇)が旭川から帯広仮停車場に着かれ、約1万人もの人たちによって迎えられた。
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