第七章 市制施行から敗戦まで(昭和8年~20年)
第一節 帯広「市」となる
昭和8年(1933)4月、帯広は、札幌・函館・旭川・室蘭・小樽・釧路に次ぎ北海道で7番目の市として誕生した。人口は、約3万2千人であった。市民の喜びは大きく、9月には盛大な市制施行祝賀会が挙行され、市民による旗行列・仮装行列が練り歩き、各所で余興や相撲などが催された。
しかし、翌年から10・11年にかけて冷害・凶作などに見舞われ、農家をはじめ社会一般の人たちの困窮はますます深刻化し、夜逃げや婦女の身売りも見られた。
そこで11年には、帯広に身売りを未然に防止するため婦女子補導委員会が設置されたほどである。そのような中にあって、市としての面目を保とうとする苦心は並々ならぬものがあり、市財政は年々多額な起債をもって対応するありさまであった。
第二節 豆類の輸出
十勝産のインゲンマメ(菜豆)や青エンドウは、第一次世界大戦後の暴落相場から大正末期には概して沈滞した商況に終始したが、昭和に入ってからまた輸出商品として活況を呈した。その輸出先は、主に北欧や米国であった。
特に青エンドウについては、北海道産(内、十勝産が5〜6割)とオランダ産とがロンドン市場でその覇を競った。しかし、昭和12年(1937)に日中戦争が起きると、道産青エンドウのイギリス向け輸出は、イギリスの日貨排斥運動によってあえなく壊滅した。
青エンドウに次ぐものは大手亡であり、この方は品質の面で競争相手も少なく、割合に販路も広く、ドイツを第一の得意先としていた。
昭和初期には、アメリカ合衆国にも大量に輸出されていたが、6年(1931)の関税引き上げにより大きな痛手を受けた。それでも12年には、計30万俵が輸出され、その9割までが十勝産であった。
しかし、昭和14年(1939)の価格統制令施行、さらに産業組合の拡大強化によって帯広・十勝の雑穀(マメ類)商人の出る幕はなくなっていった。
第三節 酪農振興
北海道拓殖計画では、農家に乳牛の飼育を勧めていた。
昭和初期の連続凶作のこともあり、また特に畑主体の十勝では、地力が減耗するので緑肥作物の導入と堆肥を入れなければならない。つまり、帯広・十勝の風土に類似する北欧・北米の酪農に学ぼうということであり、牧草、豆、麦、ビートなどと循環していく中で乳牛の飼育が考えられた。
帯広にあった十勝畜産組合でも、農家の乳牛飼育に力を入れた。
それらの関係で帯広の牛は、昭和10年(1935)ころには約600頭ぐらいにまで増えた。さらに、関連していたのは、8年に開設された北海道製酪販売組合連合会(酪連)のバターなど生産の帯広工場などであった。
なお、農民不況対策として昭和7年から5カ年計画をもって産業組合の強化が進められ、農産物の集荷、肥料等の配分を行ったので農家相手の商人は打撃を受けた。
第四節 戦争遂行体制
日中戦争
昭和11年(1936)秋に、石狩平野で陸軍大演習が実施された。この大演習直前に、神格化された天皇の地方行幸が行われたが、帯広では沿道を埋め尽くす奉拝者に迎えられての行幸であった。大演習は、不況脱出を中国大陸市場に求める戦争への前兆であり、かくて12年、日中戦争が始まり戦線は広がる一方であった。
翌年、国家総動員法が公布され、また15年には経済新体制運動が起こって、国民生活は最低限度に切り詰めあらゆる物資を戦争遂行に役立てようとした。同年、帯広米穀小売商組合が企業合同を実施、45店あった米屋が店舗を閉じ、中央・北部・南部の配給所で主食の配給を始めた。
太平洋戦争
そして、昭和16年(1941)12月に太平洋戦争に突入すると、帯広の市街は火の消えたような淋しさになった。食料品雑貨商組合は約80人の転廃業者を出し、配給所18カ所が残るのみというありさまであった。
青壮年の多くは出征や炭鉱などへの徴用で去り、娘たちは地元の農村や軍需工場に動員され、学校の少年少女は援農などに駆り出された。
当時、市内でとりわけ多忙なのは、隣組と警防団・在郷軍人会・婦人会・経済警察などであった。市内の学校では、教育勅語を中心にして国家主義教育が展開された。
また社会全般では、忠君愛国、滅私奉公、大東亜共栄圏形成が謳(うた)われ、国体護持の思想を基調として国民精神総動員運動の組織化が進められて日常生活・精神生活は国家統制されていった。
戦争の長期化と打撃
十勝地方の馬耕技術は、旧満州(中国の東北地区)開拓の手本となって注目を集めるとともに、当時“開拓・開発の新天地は満州だ”と強調された。戦争が長引くにつれて、肥料などの不足や出征兵士による労働力不足によって農村の生産力は低下し、農村を土台とする商工業を持って立つ帯広市は、その打撃を受けなければならなかった。そして、帯広市の人口増加も停滞した。
十勝大橋
なお、昭和15年(1940)には、ゲルバー式鉄筋コンクリート橋で国内有数の長大橋、しかも水道・ガス管・電車軌道なども考慮された待望の「十勝大橋」が開通した。
また同年、専売局経営のアルコール帯広工場が操業を開始、製品は航空機や自動車の燃料に充てる軍需産業であった。
そのころ、すべてが戦時体制に組み込まれていた。
第五節 軍都、空襲
軍都化
昭和15年(1940)には、北部第七三部隊(飛行第六二戦隊。重爆撃機)が帯広で開隊。
さらに19年には、第一飛行師団(鏑(かぶら)部隊)と第七師団(歩兵第二十五連隊を除く、熊部隊)が帯広とその周辺に移駐し、大部隊を形成した。飛行場には、重爆撃機用の巨大な滑走路が莫大な費用と帯広市民の勤労奉仕等によって2本も造られるなど、帯広は軍都と化した。
帯広高等獣医学校の設立
なお、昭和11年には、札幌、函館、旭川に次いで帯広放送局が開局した。
また、十勝は国内有数の馬産地であり、しかも十勝の馬は軍馬に適していたので専門技術者の養成機関を必要としていた。そこで14年、十勝農業学校に獣医専攻科が新設され、16年には、帯広高等獣医学校(帯広畜産大学の前身)が設立された。
空襲による被害
20年(1945)7月14日未明から15日夕刻まで、北海道はアメリカの航空母艦から発進した艦載機による空襲と艦砲射撃を受けた(道内の死者1,925人、負傷者970人、被害戸数6,680戸等。『県史1北海道の歴史』出川出版社による)。
十勝各地でも空襲による被害を出し、被害が最大であったのは本別町であった(死者36人、重軽傷者14人、全焼家屋279戸、大破及び倒壊113戸等。『本別町史』による)。
帯広では、駅構内や啓北国民学校付近などが銃爆撃を加えられ、死者5人、家屋損壊60有余戸などに及ぶ被害を受けた。
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