第四章 北海道庁設置から二級町村になるまで(明治19年~35年)
第一節 殖民地選定と区画
殖民地選定
明治19年(1886)に北海道庁が設置され、停滞していた開拓に大きな息吹が与えられた。
21年には、道庁殖民課の内田瀞(きよし)と柳本通義(やなぎもと みちよし)ら一行は、十勝国の約7万ヘクタールの農耕適地を殖民地として選定した。
その時の『北海道殖民地撰定報文』では、後年帯広市が育つウエカリップ原野について「此ノ地、将来ニ於テ運輸ノ便、生産ノ富、位置ノ宜(ヨロ)シキヲ有ス。只、部落ヲナスニ止マラズシテ百貨輻輳(フクソウ)ノ一大市場ヲ為スモ、亦知ルベカラズ」と記して、早くも今日あることを予見している。
アメリカ合衆国から学んだ殖民地区画制
内田らは25年(1892)に、後に石狩街道となった仮道と帯広の大通との交点を基点にして河西・河東・中川・十勝の四郡中の原野において殖民地区画を始め、順次ほかの原野に及んでいった。
殖民地区画制はアメリカ合衆国から学んだものであり、さらに内田らの意見を入れ、農家一戸当たりの耕作標準面積を5ヘクタールとし、縦150間(約273メートル)、横百間(約182メートル)を基準形式として米国農村の集落方式疎居制を採用した。
第二節 行政的都市への胎動、戸長役場
釧路分監帯広外役所の設置
明治25年(1892)、今の帯広柏葉高等学校の南側辺りに郵便局が設置され、また晩成社事務所の南側に、その草小屋を借りて三等測候所が設けられた。
さらに、北海道集治監釧路分監によって大津街道(大津、芽室間)の開削が始まるとともに、同十勝分監の建設敷地が緑ヶ丘に決まった。
また、26年には、その十勝分監を建設するために今の柏葉高校の東側辺りに釧路分監帯広外役所が設置された。(このころ、木野には音更出張所が設けられている。)
戸長役場開庁
同年6月には、河西外二郡各村戸長役場が、大津村にあった十勝外四郡戸長役場から分離して現在の柏葉高校敷地の西南隅辺り(下帯広村)に置かれることになり、翌年2月に開庁した(28年同所に釧路警察署下帯広分署開庁)。
この戸長役場は十勝内陸部では最初の戸長役場であり、帯広最初の行政機関であった。26年には、帯広の基点付近に駅てい所が開設(北海道庁布令全書による)されている。
そのころ、帯広外役所を拠点にして十勝分監の建設に総力をあげることになり、下帯広村はにわかに活況を呈し、現在の水光園付近から柏葉高校の方にかけて帯広の元村、河港の街が発達したが、それは行政的都市誕生への胎動でもあった。
第三節 ワシントン型帯広市街予定地区画
明治26年(1893)から帯広市街予定地区画が始まり、1,900戸分が測定された。そして、大通3丁目から12丁目に至る180戸分の貸し下げを公告し、翌年1月願書を受け付けた。
同年5月には、後の石狩道路と大通りとが交差する基点から大通11丁目までの草刈道が受刑者の手で開かれた。かくて、粗末な小屋ではあったが、ともかく地杭付きの柾家が軒を並べだした。
その後、順次市街地は開放されていった。
当初の帯広市街予定地は、殖民地区画を基盤にしており、音更町木野地区の一部も含む斬新(ざんしん)なものであった(一時は幕別町札内の一部も市街地に含められた)。これは、ワシントン型の北米殖民都市の設計手法いわゆる格子状パターンの“効用の原理”と斜交街路パターン(交点に公用地を確保)の“参加の原理”を導入したと考えられる。
要するに道庁は、まだ開拓の進展しない十勝の原野的状況の中で、最初から十勝殖民地の市場として都市的機構を有する中心地の建設を意図したのである。
第四節 官庁依存、十勝行政上のセンター
北海道集治監十勝分監の開庁
明治27年(1894)、道庁殖民課員出張所が晩成社の社宅に設けられた。
さらに29年には、基点付近に北海道殖民課十勝派出所が開庁した。
また28年に、北海道集治監十勝分監が緑ヶ丘に開庁、当時の受刑者は約1,300人、職員は約200人という多さであり、これを目当ての商人が大通8・9丁目辺りに集まり活発化した。
この十勝分監(36年、十勝監獄と改称)は日用雑貨・家具等を生産し、道路や橋・帯広尋常小学校(29年開校)などの公共施設の建設に当たり、また開墾などに従事、後広大な監獄用地を払い下げていった。28年には、晩成社の南側に十勝農事試作場が開場している。
十勝開拓・開発の機能を有する行政的都市へ
さらに30年、河西外六郡役所が、釧路外十二郡役所から分離して十勝一円を管轄することになり基点近くに開庁。同年これは河西支庁(昭和7年、十勝支庁と改称)となって、帯広は官公吏の多い官庁依存の町、十勝の行政上のセンターとして登場した。
なお、33年(1900)に、河西税務署が釧路から分離して帯広に開庁し、35年には帯広区裁判所が新築開庁している。
このように帯広は、十勝開拓・開発の中心市場として都市的機能を有する行政的都市を意図して歩み始めた。
第五節 開拓・開発の進展
晩成社の停滞
晩成社は、下帯広村における開拓が、入植後遅々として進まず、まったく予期せぬ停滞に狼狽(ろうばい)した。
明治19年(1886)依田勉三は、新規事業を求めて当縁村オイカマナイに移って牧畜業を始め、また鈴木銃太郎・渡邉勝らは、西士狩シュプサラの開墾に着手。
翌年、銃太郎は晩成社に、耕夫(小作人)の待遇改善等についての意見書を提出したが聞き入れられず、その幹事の職を辞任し、22年にシュプサラに定住した。さらに26年(1893)、勝が然別村に定住したので当初の晩成社の人たちは下帯広村で3戸に激減した。
しかし、19年に七重村の農業技術者田中清蔵や鈴木源平衛らは晩成社の雇員になっており、その田中はプラウを使用するとともに、試みの程度ではあったが、ハム製造の指導にも当たった。また25年には、日高国から晩成社に耕夫として加わった丸山浅太郎ら数人が現在の西本願寺別院の付近でプラウ耕を行った。
晩成合資会社の新たな業務展開
さらに26年には、勉三の弟依田善吾が来住して業務担当副社長に就任し、社名を「晩成合資会社」と改めた。そして、下帯広村に木工場、澱粉製造、亜麻製線などの機械工場を建設したり、小作人を入植させるなど積極的に新たな業務を展開したが、その事業の多くは失敗に帰した。
しかし、大豆が、下帯広村の晩成社農場で20年代中ごろからようやく作柄が安定すると言う成果が見られた。
アイヌ開墾事務所
伏古村(西帯広)では、明治18年(1885)にアイヌ開墾事務所が開設され、付近のアイヌを集めて勧農指導が行われた。この事業は21年度で打ち切られたが、そのころ伏古村と芽室村を含む河西郡のアイヌ全戸33戸が指導を受け、約41.5ヘクタールも開墾、一戸平均約1.2ヘクタールの好成績をあげた。
無願開墾
21年当時の河西郡における和人の耕作面積は、晩成社農場を含めて約45ヘクタールであり、アイヌの耕作面積とほぼ同じぐらいであった。伏古村で勧農指導に当たった宮崎濁卑は、その後この地に土着し、かたわら故郷の富山県から移民を呼び寄せて数十戸を入植させた。
当時、つまり明治28年(1895)ころまでの帯広・十勝の開拓者の多くは無願開墾者であり、彼らが果たした役割は大きい。
開拓移民
さて、29年の殖民地開放貸付、さらに30年からの北海道国有未開地処分法による殖民地開放によって、予定の期間に開墾が成功すれば、その土地は無償下付されることになり、十勝に本州などからどっと団体や個人、農場の開設による小作人の開拓移民が押し寄せた。
20〜29年までの十勝入地の移民は約3,500人、それに対して30〜39年までは約3万2千5百人にものぼり、約十倍にも達した。
小作制大農場の誕生
なお、道庁は、民間資本の導入を図るため資本家や会社などに大面積の国有未開地を払い下げる道を開いたので、十勝ではその払い下げを受けた十勝開墾合資会社をはじめ千野農場・音幌農場・美濃開墾合資会社・池田農場・高島農場などの小作制大農場が誕生した。
その小作農は、借金や冷害や小作料の支払いに苦しんだ。それらの中で30年(1897)豊頃町牛首別に入植した興復社が、小作人を15年で自作農に育てることを目的として成果を上げたのは注目されよう。
帯広最初の開拓移民団は晩成社ではあるが十勝農業の基盤を築いたのは明治29年ころから北陸三県(富山、石川、福井)と岐阜県人らによる入植によって成立したと見て良いであろう。
開拓の進展
初期の移住開拓者は、まず川沿いの肥沃地に入った。しかし、そこはおおむね大樹林であったから、その開墾は伐木・枝払いから始めたが、根株が多く手起こしに頼るので開墾は一向にはかどらず、期限内に成功(普通、1戸当たり原野5ヘクタールの無償貸し付けを受け、5年以内に開墾した場合無償付与される)するには並々ならぬ苦心を要した。
またその川沿いは、洪水の被害を受けやすい所であった。さらに、草ぶきの拝み小屋や掘建て小屋での生活であり、極度に困難な生活に耐えなければならなかった。そのころ、樹木を倒す響が周りにこだまし、木や笹を焼く焔(ほのお)が夜空を焦がし、開拓は急速に進展した。後、カシワの皮がタンニンを得るために採取されたこともあって、内陸部のカシワの樹海はその姿を急に失っていった。
第六節 開拓者の精神的支柱
晩成社の鈴木銃太郎や渡邉勝・カネらは、キリスト教を信仰しそれを心の支えとして当初困苦にもめげず開拓を進めたが、彼等以外の晩成社の多くの人たちの心の拠(よ)りどころは、地神や仏教であったのではなかろうかと推測される。なお、依田勉三は、常日ごろ「報徳訓」を口ずさんでいたといわれる。
一方、西帯広・川西・大正方面の初期開拓者の多くは、北陸地方や岐阜県などの出身者であり、そのほとんどが仏教や神道を厚く信仰していた。とりわけ念仏を一心に唱えれば極楽往生でき、またこの世では勤倹貯蓄・克己(こっき)の生活ができて幸せになれる、と信じていた。
つまり“一生懸命働いて富を蓄えることは仏の道にかなっている”という事を精神的な支柱として困難にもめげず開拓に励み、耕地(生産財)の蓄積を果たしていった。
第七節 市街・生活の様子
市街の発展と交通の整備
明治30年(1897)日本銀行帯広派出所および帯広支金庫が大通4丁目に開設された。また、34年には、大通南6丁目に根室銀行帯広支店が開業、帯広は金融上のセンター的機能をもちはじめた。
さらに、交通の整備については一層進行した。つまり、27年には大津街道が釧路港と結びつき、30年には函館から茂寄・大津に至る北海道庁補助定期航路が開設され、32年には石狩・十勝の両国をつなぐ道路ができた。また、31年、札内川に私設有料の栗山橋が架けられ、同年帯広茂寄間の広尾街道が開削された。各要所には、駅てい所が設けられていった。そして、荷物を駄鞍(だくら)に積んだ駄馬による輸送から徐々に馬車輸送へと移行しだして、それは丸木舟や50石積の船などによる十勝川の舟運に対抗するものとして登場したが、荷馬車輸送が主流を占めるようになったのは、30年代中ごろからであった。
商店街の中心は、31年の大水害のこともあって大通3・4丁目から大通5・6丁目へと移った。29年に開校した帯広尋常小学校の校舎は44坪余り(約145平方メートル)であり、尋常3年までの学級編成で児童はわずか38人にすぎなかったが、31年にはその分校として伏古尋常小学校が設けられ翌年独立した。なお、31年、現在の西6・7条北3・4・5丁目にいわゆる木賊原(とくさわら)遊廓が許されている。
当時の生活
当時、畳を敷いた家はまれで多くは蓆(むしろ)を用い、板張り壁からはすき間風の入る家であった。食物は、白米を食べる家は少なく、麦・粟・薯などが混食された。
服装は、和服を主体にいろいろであったが、防寒具としては、ネルの布をシャツや股引、首巻やマントにしたものなどを用いた。冬の履物は、藺(い)で作った藁靴や赤毛布を足に巻いて爪子(つまご)などを履いた。娯楽といえば、バイオリンに合わせて遊戯をする小学校の運動会や祭りに行われる草競馬、お盆の相撲などであった。
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