第六章 一級町村時代(大正4年~昭和8年)

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ページ番号1001426  更新日 2020年12月14日

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第一節 一級町村

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大正4年(1915)4月、帯広町は一級町村として新たに出発した。これまでともに組合役場をつくっていたうちの幸震・売買・上帯広の三カ村は廃止され、その区域は新たに大正村として二級町村制が敷かれた。

また、伏古村はその北端を帯広町に、その他の部分は芽室町に編入された。これにより帯広市街に旧伏古村の農村地帯が結びつき、人口約8,500人の帯広町が誕生した。また、大正村の中の売買と上帯広は、大正13年(1924)2月、分村独立して川西村となった。

鈴蘭公園・緑ヶ丘公園の開設

鈴蘭公園用地については、大正9年設立の「帯広町、音更村組合」(管理者、帯広町長)が国有未開地の売払出願の申請をし、同14年に許可指令が出たが、土地代等は帯広町が負担し、同公園は翌年開設された(注、平成元年帯広市は同公園の管理権を音更町に移譲)。

さらに、帯広町は、緑ヶ丘公園用地の獲得に乗り出し、昭和2年(1927)にかけて取得、同公園は同4年に開設された。

第二節 第一次世界大戦と豆成金

豆成金

写真1
豆成金時代の駅付近の雑穀の山
(大正中期)

第一次世界大戦が大正3年(1914)に勃発すると間もなく、十勝のインゲン豆とエンドウなどは世界市場に進出、その価格は騰貴し、いわゆる「豆成金」「澱粉成金」が続出した。7年に帯広から積み出したマメ類のうち最も多かったのは、インゲンマメ(菜豆)の約20万2千5百俵であり、次いで大豆が約7万5千俵、三位は小豆(アズキ)で約6万6千俵であった。

その少し前まで首位を占めてきた大豆は、ついにインゲンマメに追い抜かれた。十勝のインゲンマメとエンドウの作付面積は急激に増大した。

経済力の強化

帯広を直接市場とする音更・鹿追・大正・帯広の農産物合計価格は、大正3年の約119万円から10年には約458万円にも膨れあがり、畜産物は3年約4万8千円から10年に約20万円にもなった。

十勝の農村の経済力は、この時期に強化された。

第三節 商業都市から商工都市へ

日本麻糸株式会社・北海道製糖株式会社の工場進出

写真2
北海道製糖工場と十勝鉄道

第一次世界大戦の影響を受けて、雑穀(マメ類)などの商いとともに亜麻も活況を呈し、大正6年(1917)には、帯広に既存の製麻工場に加え日本麻糸株式会社の工場が進出してきた。

さらに8年、本社を東京から帯広町に移した北海道製糖株式会社の工場(従業員約200人)が、10年(1921)1月から隣村大正村(後の川西村)で事業を開始した。まもなく世界的な糖業不振の渦に巻き込まれたが、北海道庁の強力な支持によって事業を続けた。

その工場の規模、機械などは、アメリカ合衆国所在のものに範を採ったといわれる。原料は十勝・北見地方の農家との契約栽培にも依拠したが、アメリカから大農式農具(トラクター、デスクプラウなど)を買い入れて直営の農場経営を行ったり、ドイツから模範農家を招いたりしていわゆる風土の類似した北米や北欧から学ぶ努力をした。

甜菜・乳牛の奨励

また、北海道庁は、甜菜の奨励とともに乳牛飼育を奨励し、毎年約200頭の補助牝牛を十勝に入れた。これらが帯広・十勝の畑作輪作や酪農・加工業の進展に与えた影響は大きい。

大正12年(1923)設立の西帯広の宮本醸造合資会社(味噌・醤油工場)や同年からの極東練乳株式会社の受入所および昭和3年(1928)に帯広に設けられた同練乳会社の工場なども、十勝農業に関連するものであった。

金融の活発化

写真3
根室銀行帯広支店(西2条5丁目)

金融については、根室銀行帯広支店(大正12年安田銀行に吸収合併される、昭和23年富士銀行と改称)のほかは個人業者であったものが、大正5年(1916)に無限責任帯広信用組合(同9年有限責任に変更、昭和26年帯広信用金庫と改称)と北海道拓殖銀行、その後十二銀行帯広支店(昭和18年北陸銀行と改称)等が帯広に開設され、活発化した。

また、町の商工業者が相寄り、10年(1921)に帯広実業協会を結成し、それは15年に帯広商工会となって商工振興に努めた。

商工の発展と戸数の増加

大正4年(1915)末の帯広町の戸数1,950戸のうちの職業別戸数は、依然として官公吏および教員を首位とし、二位は農業、三位商業となっていた。

それが10年後の13年(1924)末には、帯広町の戸数は二倍をはるかに突破(4,379戸)して、商業が一位(1,187戸)、工業が二位(768戸)、官公吏及び教員三位(534戸)となり、10年(1921)ころから帯広町は、十勝農村を背景にして一躍商工都市の列に加わった。もはや帯広町は、官庁のみに依存する町ではなくなった。

第四節 ターミナルステーション

鉄道の発達

明治44年(1911)釧路線に函館釧路間直通列車が通ることになり、大正2年(1913)には滝川下富良野間が開通、10年(1921)には根室まで延びた。それらを含めて、帯広方面の交通の発達は目覚ましかった。9年には、清川などの方と結ぶ北海道製糖株式会社の専用鉄道が開通、さらに13年からは、十勝鉄道株式会社が帯広駅の南を起点として一般旅客などの取り扱いを始め、昭和4年(1929)に大通駅ができた。

また、大正14年には上士幌線帯広士幌間が開通し、翌年全通。昭和4年には広尾線帯広中札内間が開通、7年に広尾まで通じた。

主要道路の整備

道路では、札幌根室間(石狩街道)、浦河帯広間(広尾街道)、帯広網走間(帯広から上士幌、足寄を経て網走に至る)の主要道路が整備された。

昭和9年(1934)に完成した日高十勝をつなぐ道路には、多額の費用を投じたため「黄金道路」と呼ばれた。大正末期のころまでは、帯広を中心として士幌・幸震方面に客馬車が通っていたが、昭和の初めにバスが走るようになった。

自動車が走行するには良くない道路であったが、昭和8年までにバス路線は、帯広から大津・広尾・上士幌・芽室・池田・然別湖などにまで延びた。

ターミナルステーション

このように帯広は、昭和初期に全道まれにみる鉄道・道路の交接点となり、十勝の中心地としてまた道央・道東を結ぶ中継拠点として、人々の往来が盛んになるとともに物資の大集散地となり、いわゆるターミナルステーションとしての機能を発揮しはじめた。

地図1
昭和初期の十勝の鉄道と主要道路

第五節 不況と凶作・洪水

物価の急落と不況

大正から昭和初期にかけて帯広町が発展する途上、不況等による苦境・苦難が多々あった。

特に、第一次世界大戦後、物価は急に下落し、大正9年(1920)には凶作も加わってさしもの雑穀(マメ類)景気は一朝の夢と化し、雑穀商などの企業者で倒産するものが相次いだ。製麻工場も事業不振に陥った。

また、大正末年から昭和初頭にかけての農村の不況は、大正15年(1926)と昭和6・7・9・10・11年(1931・32・34・35・36)の冷害・凶作と相まって十勝の農村を苦境のどん底に落した。

帯広町内の日雇労働者は6年に、約1,400人にも膨れあがり、その内約1,000人は失業状態にあるというありさまであった。このため帯広町の社会福祉事業は活発化し、行路病舎・町立職業紹介所・無料宿泊所などが次々と開設された。

洪水の襲来と治水事業の推進

さらに、十勝川や札内川などの氾濫(はんらん)は度々起きた。

特に、大正8年(1919)から13年に至る間はほとんど連続的に洪水が襲来、なかでも11年の大洪水は未曾有(みぞう)のものであり、辛苦して開いた耕地が再び荒野に戻るという惨状を呈した。

このような事が契機になって各河川の治水事業は一層推進され、帯広でも帯広川と売買川の改修工事が進められた。
昭和2年(1927)には、十勝川治水事務所が独立して庁舎を新築、翌年帯広治水事務所と改称している。

米作へのあこがれ

なお、西帯広の水田は、大正4年(1915)におよそ30ヘクタールほどであったが、13年(1924)には約530ヘクタールにも達する激増ぶりであった。また、別府方面などでも水田作りが展開された。

当時の人たちの米の飯を食べたいという切実な欲求と本州米作へのあこがれがあり、寒地での困難にもめげず開田して稲作が進められた。
前述したように昭和6・7・9・10・11年と打ち続いた冷害・凶作は、これらの水田に打撃を与えたが、その後の改良により西帯広などの湿地帯を豊かな水田にしていった。しかし、十勝全体としては、昭和初期以降冷害の関係で水田は急速に畑に還元されていった。

つまりは、十勝全体の耕地の中では、水田面積はわずかなものであり、十勝農業の主流は北米・北欧風の畑作であった。また、大正7年(1918)の帯広町の場合、農家356戸のうち自作農は約100戸、あとは小作農もしくは自作農兼小作農の貧農であった。

第六節 開町25年、市街の動き

開町25年記念祭

大正8年(1919)6月、帯広神社の郷社昇格祭を兼ねて開町25年記念祭が行われ、提灯行列などで開拓以来の町の目覚ましい発展を祝った。
この「25年」は、明治26年(1893)の戸長役場開設告示を基にして計算した数字であった。そして、今の鈴蘭公園に松浦武四郎の歌碑(「此のあたり馬の車のみ津ぎもの御藏を建てゝつまゝほしけれ」)が建てられた。

また大正12年(1923)には開町30年祭が行われ、功労者を表彰した。当時、帯広町から数名の道議会議員を送っており、また衆議院議員も13年の奥野小四郎をはじめ毎期一人は送るようになった。

市街の変化

写真4
新築された帯広町役場(大正10年)

帯広市街の変化についても、顕著な動きがみられた。

つまり、大正7年(1918)の裁判所移転、その用地の解放と11年(1922)並びに昭和2・3年(1927・28)の刑務所用地の解放は、西2条9・10丁目付近と鉄南地区を大きく変貌させた。
加えて、大正5年以来の晩成社用地の解放と昭和6年(1931)の競馬場跡地(東4条〜東8条、11〜13丁目)の解放もあり、新競馬場は同年西郊の現在地に新設された。


写真5
イレネー号銅像

それらの関係で大正10年には、帯広町役場が西3条8丁目に新築移転して威容を現し、また翌年帯広郵便局も西2条8丁目に移築した。さらに昭和6年には、河西支庁(翌年十勝支庁と改称)が東5条9丁目に新築移転し、帯広・十勝の主要行政機関は9・10丁目付近に移った。

なお、4年には、十勝公会堂の敷地内に十勝会館が雄姿を現し、翌年公会堂前広場にイレネー号の銅像が建てられた。

市街地の拡張

写真6
藤丸デパート開店直後の西2条(昭和5年)

また、昭和5年に、明治30年(1897)来の老舗藤丸呉服店が西2条9丁目に藤丸デパートを新築し開店した。その付近には、商店や映画館などが建ち並び、この辺りが帯広市街・帯広商業の中心地となっていった。盆踊りは木賊原遊廓(とくさわらゆうかく)にしか許されていなかったが、大正12年ころからは街中でも許されるようになった。

そして、急激な人口増加のため東1条16・17丁目の文化街をはじめ各地に住宅街が生まれ、市街地は鉄南方面などへと拡張していった。さらに7年には、帯広町の病院と医院は20有余を数え、十勝の医療センターとしての地位を占めるようになった。和洋折衷の建物も広まりだし、屋内では薪ストーブが使用された。

写真7
旧帯広郵便局(大正11年新築)
写真8
十勝会館(昭和4年落成)

第七節 中等学校、人口増加の一途

中等学校の開校

大正時代の中ごろまでは、中等学校に進学しようとする人は親元を離れて、札幌・旭川・釧路などへ出なければならなかった。しかし、大正4年(1915)に私立十勝姉妹職業学校、9年(1920)に帯広町外十二カ町村組合立十勝農業学校、12年(1923)庁立帯広中学校と私立帯広大谷女学校が相次いで開校した。また、大正5年に創立された妹尾満左裁縫塾は、12年に私立帯広裁縫女学校として認可を受けている。

町民に深い印象を残したのは、大正6年8月アメリカ合衆国の曲乗飛行士アート・スミスが監獄高台を臨時発着場にして、帯広上空で鮮やかな妙技を見せたことである。ただし、2回目は離陸に失敗して倒木で翼を傷めて中止となったが、これが帯広の空で飛行機を見た最初であった。

また、昭和に入って間もなく帯広町民の血を沸かしたのは、全道少年野球大会札幌大会で柏小学校チームが優勝を遂げにしきを飾ったことであった。

人口の急増と晩成社解散

さて、帯広が一級町村になった大正4年(1915)の人口は約8,500人であったが、大正末期には2万人を超え、さらに昭和5年(1930)には約2万8千人と急増、3万人に迫る勢いであった。

そこで帯広町は、市になる準備を着々と整えていたが、帯広市誕生前年の7年12月、帯広開拓の草分けとなった晩成社は、入植から約50年の足跡を残して解散した。

大正4年から昭和7年までの帯広町の人口推移を表した折れ線グラフ。大正4年は約8500人であったが年々増加し、昭和7年には約32000人を超えた。
大正4年(1級町村制施行)から昭和7年(市政施行前年)帯広町の人口推移

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