振り返る帯広 第3回「市制施行から、川西・大正の合併まで」

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ページ番号1001416  更新日 2020年12月14日

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開拓130年市制施行80年を迎え、連載で帯広の歴史を振り返ります。

開拓130年市制施行80年記念連載 振り返る帯広

戦争の影響

市制が施行された昭和8年頃の日本は、大戦前夜の重苦しい雰囲気に包まれていました。
昭和12年に日中戦争が、また、昭和16年に太平洋戦争が始まり、出征による労働力不足などから、農業生産力が低下し、十勝経済は大きな影響を受けました。
戦中は、帯広に軍隊が移駐し、巨大な滑走路が作られるなど、軍都の様相を呈していましたが、終戦後、軍は解体されました。
しかし、国内の主要都市が廃墟に近い状態であったことや、帯広と近接地域は広大な農業生産地帯があったため、人々が続々とこの地に入ってきました。
このことが戦後の人口急増の要因の一つとなり、また、帯広は産業・経済の復興に向けて大きく前進することとなりました。

農業における変化

十勝は国内有数の馬産地であったことなどから、昭和16年に帯広高等獣医学校が設立され、その後、帯広畜産大学と改称し、学術面、教育面などから農畜産業の発展に大きな役割を果たしてきています。
終戦後、戦後改革のひとつとして行われた農地解放は、多くの小作人が自作農へと転換することにより、農業王国となる転機となりました。
また、第一次世界大戦以降の砂糖景気により、ビート作付けの急増と葉茎を飼料とした乳牛の飼育数が増加し、酪農は畑作と共に十勝農業を代表する産業に発展していきました。

川西・大正村の合併

帯広市と近接地域との合併は、昭和25年の川西村稲田地区の住民による帯広市編入運動などがきっかけとなり、昭和32年、川西・大正両村と合併しました。
この合併により、帯広市は市街地部に加え、新たに広大な農業・森林地帯を有する、都市としての発展の基盤を整えることになりました。
翌年1月には、人口が10万人を超え、その後、近代的な田園都市として輝かしい発展を遂げていくことになります。

写真1
合併祝賀パレード(大正市街)

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