第八章 戦後、川西村・大正村との合併前(昭和20年~32年)

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ページ番号1001428  更新日 2020年12月14日

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第一節 敗戦、民主化

敗戦

昭和20年(1945)8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏し、翌日天皇がラジオ放送でこれを国民に発表した。やっと長い戦争が終わった。しかし、国民は虚脱したような状態であった。

金属という金属はみな供出され、白壁は汚され、街は見る影もなかった。
帯広の誇りとされていたイレネー号や依田勉三、藤本長蔵、高倉安次郎の銅像は寺の梵鐘(ぼんしょう)とともに姿を消していた。
橋の擬宝珠(ぎぼうしゅ)も公園の鎖もなくなっていた。

軍隊は解散され、帯広にも占領軍(アメリカ軍)約200人が進駐して十勝会館などを本拠にして仕事を進めた。武器や軍の施設は接収され、差し支えないものは財務局に引き渡された。

民主化への躍進

この占領下で天皇の人間宣言や財閥解体、農地改革、労働組合の育成、選挙法改正、新憲法施行などの民主化が次から次へと進められた。言論の自由も許され、多くの新聞が刊行されだした。

農地改革直前の昭和20年11月現在の調べでは、帯広市内の小作地は自作地の約2.4倍にも達していた。このような状況下で帯広をはじめ十勝の各地で未曾有(みぞう)の大事業である農地改革は遂行され、多くの小作農が自作農へと転換、その喜びは大きく、これが大いに営農意欲をかき立て農業王国十勝を生む原動力となった。

なお、帯広でも農業協同組合と農業共済組合が結成された。

また、戦前の帯広の労働運動は最初から弾圧がひどく、とりわけ日中戦争以後労働運動は影を潜めていたが、戦後間もなく各職場に労働組合が次々と結成され、組合活動は活発化した。

民選市長の誕生

新選挙法の制定では、これまで女性に認められなかった選挙権が女性にも認められ、20歳以上の男女すべてが選挙権を得た。そして、昭和22年の帯広市長選挙では佐藤龜太郎が当選、これは帯広では初めての住民直接選挙による民選市長の誕生であった。

北海道警察帯広警察署と帯広営林局

なお、帯広市は、自らの警察を持ち得るようになったが、29年(1954)には市警察は廃止されて北海道警察帯広警察署一本になった。また、従来の御料林は国有となり、帯広営林局は22年5月に開庁、やがて広大な庁舎を建て、十勝・釧路・根室の国有林管理に当たった。

小・中学校の義務教育化

学校教育の民主化に関しては、22年の教育基本法の制定、さらに6・3・3・4制が採用され、小・中学校の課程が義務化された。その小・中学校の設置は市町村の負担とされ、人口増加の著しい帯広市はその建築費に苦心しなければならなかった。

第二節 物資・食糧等欠乏

極度の物資・食糧難

敗戦直後の帯広市民はくたびれた国民服を着、継ぎだらけのモンペをはくなど服装は哀れであった。それよりも食生活は、さらに惨めであった。20年(1945)の夏は冷涼で秋の霜は早く、冷害・凶作となって大きな食料難に襲われた。

翌年2月末現在で、帯広市民の配給主食は27日間の遅配を示し、市民は飼料用のエンバクや澱粉粕(かす)などまでも食べなければならなかった。また、リュックサックを背負い列車などに乗り、農村地帯に澱粉や雑穀、豆類を求めて買い出しに走った。
燃料も電気もすべての日用のものが極度に欠乏していた。

未曾有のインフレーション

このような状況下で、外地からの引揚者が着のみ着のままリュックサック一つでたどり着き、帯広市は旧陸軍の施設を借りて収容した。しかも未曾有(みぞう)のインフレーション(帯広の平均物価は21年1月から3年間に約100倍にも膨れ上がった)は、市民の生活を脅かし生活困窮者の数を増大した。
そこで市は、新たに授産場や救護院などを設けた。

また、戦後の戸口増は目覚ましく、住宅不足も深刻であった。市は、引揚者住宅や市営住宅を年々建設しなければならなかった。

第三節 経済復興

露店や市場の賑わい

敗戦直後の貧困生活の中で、人々はまさに食べるために必死になって働いたが、それは経済復興へとつながっていった。広小路では、戸板を並べての細々とした商売が始められ、この通りは21年(1946)秋から「新興マーケット」を名乗り、200メートルにわたる仮家を連ねて賑(にぎ)わいの中心になった。次いで露店や市場が各所に新設あるいは復活して、そこは物資不足のためよく売れ賑わった。

工場の進出

帯広市に本社を置く北海道興農工業株式会社は、昭和22年に日本甜菜製糖株式会社と改称、30年(1955)代の甜菜糖ブームの先駆となった。

また、帝国製麻と興農公社の帯広工場は、独占禁止法によって中央繊維と雪印乳業とクロバー乳業株式会社の帯広工場と変わり、生産活動は次第に軌道に乗っていった。さらに、甘味不足の時期がかなり続いたので、帯広に飴やブドウ糖を製造する比較的大規模な工場も生まれた。

そのほか、日本農産罐詰株式会社や明治乳業株式会社の工場なども帯広に進出した。

輸送力の回復と赤いダイヤ

また、敗戦数年後、バス・トラックなどは戦前を凌駕(りょうが)し、輸送力は回復していった。

26年(1951)に雑穀の統制が解除になると、東部雑穀澱粉商商工同業組合が復活してその取引が活発化し、30年前後のころには、小豆(アズキ)は赤いダイヤともてはやされ投機の中心になった。

機械化農業へと進展

なお、30年ごろまでは、農家の馬が農業の復興に向けて農耕の主力として活躍したが、その後馬はトラクターの普及に反比例して減少していき、人力・畜力農業から機械化農業へと進展しはじめた。

第四節 市民の生活変化

体育施設の整備と帯広競馬

体育方面の活動も復活した。帯広市は、昭和21年(1946)に緑ヶ丘市営球場の建設に着手し、その後も総合グラウンドなどの諸施設を整えていった。
また、久しく絶えていた帯広競馬は23年から再開され、25年からは道営競馬となりやがて市営競馬が加わった。

同年7月、全国レクリエーション大会が帯広で盛大に開催された。その後公民館が関係団体に呼応して一層活動を充実していった。

日本の独立

同年、警察予備隊帯広部隊(後、保安隊帯広部隊、さらに陸上自衛隊帯広駐屯部隊と改称)が開設された。翌年(1951)、サンフランシスコ平和条約が調印され、さらに日米安全保障条約も結ばれて日本の占領体制は終わりを告げ、独立を回復した。

平和博覧会

帯広市は、昭和27年に開基70年(晩成社入植の明治16年から数える)、市制施行20年の記念式典を挙行、また帯広で初めての平和博覧会と郷土資料展示会などの行事を行い、戦後復興に大きな区切りをつけた。

また、29年(1954)には、天皇・皇后両陛下の行幸啓があり、市内はひしめく奉迎者の人波で大変な賑(にぎ)わいであった。

上水道の通水

写真1
帯広駅前平和博覧会の宣伝塔(昭和27年)

前年には、市民待望の上水道が通水し、札内川の伏流水の水質が良くて好評を博した。さらに、31年からは帯広地方でもテレビの視聴が可能になり、翌年帯広ガス株式会社の創立をみて、帯広もどうやら先進都市並みに近づいた。

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