第九章 合併以後(昭和32年以降)

第八節 帯広の森造成

帯広の森

 昭和30年(1955)ころから高度経済成長が始まるとともに公害や環境問題が浮上してきた。

 帯広市では49年(1974)に、子孫に残す大きな遺産大規模公園としての「帯広の森」造成のため334.6ヘクタールの面積を計画決定して用地の取得に着手し、その後も用地の買収を進めた。当初の市長は吉村博であった。

 50年からは「帯広の森」造成のための市民植樹祭が、多くの市民参加により毎年実施されて造成が進められた。
 59年(1984)には、中曾根康弘首相が来帯、「帯広の森」を視察し植樹もされた。

 近年は、毎年秋に市民育樹祭も行われるようになったが、市民や子孫のために地球環境を守り、自然と共生の理念をもって都市づくりを進める「帯広の森」造成の意義は誠に大きい。

緑の回廊づくり

 また、帯広市は、河畔林で街を包む「緑の回廊づくり事業」により平成5年(1993)度から札内川左岸で植樹を行ってきたが、12年(2000)度からは十勝川右岸の植樹に着手した。

 さらに、帯広市の市街化区域内の緑を倍にすることを目的に策定された「緑倍増計画」(平成8〜17年)が、帯広の森造成を含めて進められてきている。

環境美化運動

 なお、昭和33年(1958)には、全国的にも珍しい野草園(緑ヶ丘公園内)が造られ、人々が観察散策に訪れている。また、岩内仙峡を含む地域は、47年(1972)環境庁によって国民休養地に指定された。

 49年には、戸蔦別川・岩内川流域にある八千代・拓成・岩内・上清川・清川の5町の地域は、農林省より自然休養村として指定を受け、諸施設の整備が進められた。

 また、市民の自治活動の一つとして38年(1963)に誕生した「緑と花で美しくする実行委員会」を中心にして、環境美化運動が展開されてきた。

帯広の森完成予想図「帯広の森」構想は、長さ約11キロ、幅約550メートルの森林ベルトで帯広市街をつつむ計画

帯広の森完成予想図
「帯広の森」構想は、長さ約11キロ、幅約550メートルの森林ベルトで帯広市街をつつむ計画。昭和50年から毎年市民が植樹、造成を進めている。

「帯広の森」市民植樹祭(昭和59年5月)

「帯広の森」市民植樹祭
(昭和59年5月)

中曽根首相「帯広の森」視察(昭和59年9月)

中曽根首相「帯広の森」視察
(昭和59年9月)

第九節 教育・文化・スポーツ

学校の新設・移転・統合

 昭和30年(1955)代から旧帯広市街地周辺部の人口増加が著しくなり、小・中学校の新設が相次いだが、人口減少の農村地区では、40年(1965)ごろから小・中学校の統合が始まり推進された。また、41年から新設の小・中学校並びに木造老朽校舎は次々に永久建築化され、暖房も寒冷地向きに近代化された。高等学校については、50年(1975)代以降、北海道帯広三条高等学校をはじめ数校が旧帯広市街地周辺に新築移転し、校舎の近代化を果たした。

 なお、35年帯広市に開学した帯広大谷短期大学は、63年(1988)に音更町に新築移転している。戦後、PTAの協力で始まった学校給食については、完全給食へと進み、39年には学校給食共同調理場が新設された(さらに57年移転新築)。

 昭和34年(1959)には、帯広市立の北海道帯広南商業高等学校が誕生。さらに55年(1980)には、帯広市や市民の熱意が実って市立の北海道帯広緑陽高等学校が開校し、58年に道立に移管された。

教育の研究

 帯広市の教育計画や教育方策の調査研究のため、30年に帯広市教育研究所が発足、翌年市条例により設置され、社会科副読本『おびひろ』の編集などその意欲的な取り組みは現場教育に役立ってきた。

 42年(1967)に発足した帯広市教育研究会(前身は31年の教科研究サークル、帯広市教育委員会・校長会・北教組帯広支部・帯広市教育研究所の相互協力で発足)は、学校教育関係全般について各部会を組織し、現場教育に密着した研究実践を推進してきた。

障害児教育

 35年に帯広小学校で、翌年帯広第三中学校で始められた障害児教育は、その後小・中学校で学級の増設をみてその振興に努めてきており、さらに帯広市教育研究会の障害児教育部会には、帯広盲学校・帯広聾学校なども加わって教育研究に取り組んできた。なお、老若男女の市民各層を対象とする社会教育や、社会体育の場も次々とつくられた。

看護師・保健師の養成

 45年、管内1市19町村の一部事務組合によって帯広高等看護学院が開校され、28年設立の帯広市医師会看護高等専修学校、平成4年設立の北海道社会事業協会帯広看護専門学校(旧すずらん看護学校)とともに地域住民のため看護師や保健師の養成が進められてきた。

郷土史の文献・市民文芸・市民文化

 昭和30年(1955)に第一巻を発刊した『帯広市社会教育叢書』(後、帯広叢書と改称、帯広市教育委員会発行)は、その後も刊行を重ね平成14年(2002)4月には『第47巻、吉田巖資料集13』を刊行、郷土史の文献として世に高く評価された。

 また、56年(1981)までに第18号を刊行した『郷土十勝』や帯広百年記念館発行の『ふるさとの語り部』(平成14年現在、第18号発行)、北海道建築士会十勝支部帯広分会・帯広市教育委員会発行の『帯広市古建築調査書』(平成13年現在、14冊)、帯広市教育委員会発行の『帯広市埋蔵文化財調査報告書』(平成14年現在、23冊)等は、郷土調査の好資料とされている。

 また、広く市民の文芸活動を推進するための『市民文芸』の創刊号は、36年の文化の日に帯広市図書館から発刊され、これまでに第40号(平成13年3月現在)が刊行された。さらに市民劇場は、帯広市の芸術文化の推進と芸術文化団体の育成を目ざして38年に発足、以来活動を展開してきた。また、民間サイドの団体としての十勝文化会議は、57年に十勝の文化振興を目的として発足し活動してきている。

文化財・天然記念物の指定

 昭和37年(1962)、大正町の化粧柳が北海道天然記念物に指定されたが、その後大正町のカシワ群生地・帯広畜産大学農場用地内の十勝坊主も道指定天然記念物となった。

 56年(1981)には帯広市文化財保護条例が施行され、翌年から依田勉三直筆の書「留別の詩」と「十勝監獄石油庫」および「帯広カムイトウウポポ保存会」などが帯広市の文化財に指定され、それらの保護に力が入れられてきている。

 また、59年には、帯広カムイトウウポポ保存会ほか7団体のアイヌ古式舞踊が国の重要無形民俗文化財に指定された。

スケートのメッカ帯広

 帯広市で初めての国体である第14回国民体育大会スケート大会は、昭和34年(1959)に緑ケ丘特設リンクで開催されたが、大観衆に囲まれての盛大な大会であった。さらに、国体スケート大会は、38年と43年(1968)にも帯広市で開かれた。

 また、平成14年(2002)には、帯広市と清水町・浦幌町による初の広域開催となり、その帯広市における開会式には皇太子殿下が臨席され、多くの帯広・十勝の人たちにより歓迎された。

 そのほか規模の大きなスケート大会が帯広市で過去何回も開催され、帯広白樺高等学校スケート部などの活躍もあって、帯広は全国的なスケートのメッカとなった。

国民体育大会スケート大会(昭和38年)−於、帯広市緑ケ丘特設リンク−

国民体育大会スケート大会(昭和38年)
−於、帯広市緑ケ丘特設リンク−

 また、47年には、体育の殿堂総合体育館(大通北1丁目)が完成、その後前述(「諸施設等の充実」の項)したように帯広の森の運動諸施設は充実してきた。しかし、帯広市文化スポーツ振興財団が管理する体育施設の維持管理費が年々膨らんできたという悩みもある。

健康スポーツ都市宣言と十勝出身選手の活躍

 なお、63年(1988)に、帯広市は健康スポーツ都市宣言を発しており、学校や職域・地域などでも各種スポーツが盛んである。平成6年(1994)前後からは、帯広の森運動公園パークゴルフ場等が造成され開所したこともあって、市民によるパークゴルフは一層盛んになった。

 また、市民歩こう大会は、昭和44年から始まって平成6年まで続いた。平成10年、長野冬季オリンピックで帯広市出身の清水宏保がスピードスケートで「金」(種目男子500メートル)と「銅」メダル(種目男子1,500メートル)を獲得、そのほかの十勝出身選手の活躍もあって帯広市民を大いに沸かせた。

 さらに、平成14年の米国ソルトレークシティーにおける冬季オリンピックでは、日本勢が全般的にふるわない中で、清水宏保はスピードスケート男子500メートルで「銀」メダルを獲得、さすが“世界の清水だ”と感動を呼んだ。

第十節 開拓120年・市制施行70年

帯広・十勝の開拓

 帯広・十勝は、およそ2万数千年前から先人の生活の舞台であった。先住のアイヌの人々の形質は、縄文人から続縄文人を経てつながっていると考えられており、さらに文化的には12、13世紀ころから伝統を基盤に、和人や北東アジア民族の文化の影響を受けつついわゆるアイヌ文化・アイヌ民族が育(はぐく)まれてきたようである。

 その先住のアイヌ民族は「自然と共生」などの文化的伝統を大切にしながら暮らしていた。

 そのアイヌ民族が住んでいたオベリベリの地に、明治16年(1883)晩成社が入植し、困難極まる開墾生活が始まったが、その時アイヌの人々の協力があって開拓は進められた。同時にアイヌの人々にとってはイオル(狩・漁猟圏)などの喪失の始まりでもあった。

帯広・十勝の発展

 明治26年からは、道庁により原野的状況の中で帯広市街予定地区画が始まり、十勝殖民地の市場として都市的機構を有する行政的都市の建設が始動。初期開拓者や商工業者らは、帯広・十勝の北米・北欧的な亜寒帯の気候風土の中で艱難辛苦、極度に困難な生活に耐え、その風土にふさわしい経済・文化などの創造目指して努力した。

 関連して先人は、帯広を十勝の政治・経済・文化の中心地、北海道の開発拠点都市として、また北米・北欧的農業基盤の生産物集散市場、消費物資・生産資材などの市場として、いわゆる物流拠点の商工都市として発展させてきた。さらに近年は「新世紀を拓く田園都市、おびひろ」を掲げて、安心安全都市・産業複合都市・環境共生都市・生涯学習都市・広域連携都市を目標に据え、その実現に向けて推進してきている。

帯広市開拓120年・市制施行70年記念式典

 さて、帯広の開拓の幕開けとなった明治16年(1883)の晩成社入植から平成14年(2002)まで約120年が、また昭和8年(1933)の市制施行からは約70年が経過した。ここに先人の労苦をしのび、さらなる帯広市の発展を願って平成14年11月1日、帯広市開拓120年・市制施行70年記念式典が帯広市民文化ホールで挙行された。

 また、この年には、とかち国際現代アート展「デメーテル」をはじめ各種の記念事業が実施された。

開基から開拓へ

 なお、帯広市は昭和27年(1952)から、明治16年を帯広の開基の年として“開基”を呼称し記念事業を行ってきたが、平成14年からは“開拓”を使用することにした。これは先住のアイヌ民族と移住和人が相協力して帯広の開拓に励み、諸産業等を発展させた歴史を踏まえて呼称変更がなされたものである。

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