第三章 開拓使・札幌県時代(明治2年〜19年)

第一節 十勝国・七郡設けられる

蝦夷地から北海道へ

 明治新政府は、明治2年(1869)に蝦夷地を北海道と改め、開拓使を設け、国・郡に分けた。そして、場所請負制は廃止された。この時、十勝場所は十勝国となり、広尾・当縁・十勝・中川・河東・河西・上川の七郡に分けられ、帯広地方は河西郡に属した。また、杉浦嘉七は場所請負人を免ぜられて漁場持となったが、その経営内容は以前と変わるものではなかった。

静岡藩と鹿児島藩

 明治2年8月、十勝・中川・河東・上川の四郡は静岡藩に、広尾、当縁・河西の三郡は鹿児島藩にゆだねられた。間もなく鹿児島藩は三郡支配をやめ、そこは徳川家直系の一橋家および田安家の所領となり、十勝国はすべて徳川家一族の領地となった。帯広の地は一橋家の支配下に入ったが、そこはまだアイヌ民族の天地であった。

 静岡藩は4年6月、十勝最初の移住農民6戸7人ぐらいを大津近辺に入植させたが、同年の廃藩置県、開拓使直轄に伴って静岡藩の支配は終止符を打ち、移住農民も帰国してしまった。

 なお、同年に来日したケプロンをはじめ開拓使お雇い外国人の中には、かなり米国人がおり、また一時期開拓使留学生の多くがアメリカ合衆国に渡った。かくて開拓使の黒田清隆のもと、アメリカ合衆国が北海道開拓のモデルとされ、近代化が推進されることになる。

第二節 開拓のさきぶれ

戸長役場の設置

 開拓使時代に行政所属は目まぐるしく変化したが、明治13年(1880)には、茂寄村に広尾・当縁両郡各村戸長役場が設置されるとともに、大津村に十勝・中川・河西・河東・上川各郡各村戸長役場が開庁した。

 また、この時代に測量隊による十勝内陸部調査や大判官松本十郎の巡視、アメリカ人ライマンの地質調査、御用掛田内捨六・内田瀞(きよし)の交通路調査などがあり、さらに13年以降のトノサマバッタによる被害(蝗害)処理の施策があった。しかし、それら以外十勝に対する施策は見るべきものがなかった。

十勝組合

 明治8年(1875)、若松忠次郎ら和人とアイヌによる計13人で十勝組合(十勝漁業組合)を組織、5年を一期として十勝漁場の経営に当たった。しかし、独占的な経営であり、和人の内陸部への入地を拒んだので解放を求める動きが生じ、それは13年に解散、十勝は自由の地となった。
すると世の注目するところとなり、大津の戸数はまたたく間に急増、翌年には四十数戸になったようであり、さらに数多くの猟師や商人らが鹿皮・鹿角や鮭などを求めて内陸部へと入り込んだ。

 鹿は12年(1879)と15年(1882)の大雪により至る所で餓死、乱獲もあったが、鹿皮に望みを失った人々の中には鹿角に目をつけ原野に火を放つ者もいた。

晩成社の結成

 はからずも12年からの蝗害の大発生は、十勝内陸部が広野であることを内外に知らしめ、また内陸に入った商人や猟師らの中に、利別太などで無願開墾に従事する人たちも現われた。

 依田勉三は、14年に十勝沿岸部を視察、大津で内陸部への開拓者の移住計画があることを耳にして強く心を引かれたのであろう。
 静岡県松崎村に帰郷した勉三は、早速兄佐二平以下の一族の賛成を得て15年1月、開拓団晩成社(社長、依田園)を組織した。

 この年の2月に開拓使は廃止され、十勝国は札幌県に属することになった。

 同年6月勉三と同志鈴木銃太郎は、入植地の選定と諸準備をするため渡道し、札幌県庁などに立ち寄ってから十勝内陸部を踏査、音更のモッケナシの馬場猪之吉の所にいた大川宇八郎の案内を受けたりして同年7月16日、アイヌの人々が住むオベリベリを有望の地として入植地に決定した。

 銃太郎は、オベリベリに残って翌年開拓団を迎えるため作物の試作等の準備に入り、勉三は、札幌県庁などに寄ってから帰郷、渡邉勝とともに移民や株主募集などに奔走した。

第三節 晩成社入植とアイヌの人々

晩成社入植

 明治16年(1883)4月、依田勉三ら13戸、27人の晩成社の人たちは、鈴木銃太郎が待つオベリベリ(下帯広村)に向けて横浜港を出帆、5月に苦労の末やっとたどり着き、開拓の鍬を打ちおろした。

 同年秋には、銃太郎の父親長が、渡邉勝の妻となった娘カネと勉三の弟文三郎を伴って開拓団に加わった。
 この晩成社は、いわゆる明治13年亀田郡に入植の開進社、14年浦河郡に入植の赤心社とともに、北海道における民間の企業経営の結社移民として、その嚆矢(こうし)ともいうべきものであった。

鈴木銃太郎

鈴木銃太郎

晩成社とアイヌの人々

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晩成社移民団
(前列左から2人め依田勉三、その右隣渡邉勝)
明治16年4月、横浜にて

 晩成社入植時、その近辺つまり今の水光園辺りから東4条南5・6丁目の方にかけては、アイヌの人たちが十数戸約50人と国分久吉らが住んでいた。しかし、アイヌの人たちは晩成社の団体入植に不安を感じ、この地から一人二人と去り、遂に翌年村長(むらおさ)モチャロクを最後に全員この地を去った。

 明治16年の晩成社による開拓開始は、オベリベリにおける新たな開拓・開発時代の幕開けであった。同時に、アイヌ民族にとっては伝統的な経済基盤イオル(狩猟・漁労・採集圏)などの喪失の始まりであった。

 晩成社の人たちは、本州とは異なる亜寒帯の気候風土等にとまどいながら開拓に立ち向かったが、困難を極め1年目に早くも将来に絶望して耕夫3戸が逃散、翌年には早くも8戸ほどにまで減少、晩成社は衝撃を受けた。


 そのような中にあって、移民の後が続かず近辺からアイヌの人たちが晩成社を訪れて小屋作り・新墾・再墾・播(は)種・除草・収穫等の開拓の仕事に従事協力した。まさに、和人とアイヌ協調なかりせば開拓なしであった。なお、そのころ晩成社は豚や山羊を飼ったり、耕馬を入れたり、澱粉を試造するなどの努力も重ねたが、事業は不振を続けた。

アイヌの生活

 アイヌの生活については、鹿の減少と鮭の繁殖を図るための保護区域の設定などにより、窮乏が目立ってきた。そこで明治18年(1885)、札幌県は伏古村伏古別、芽室村毛根、音更村下音更、白人(チロット)村咾別(イカンベツ)などを選び、そこにアイヌを集めて営農指導を行った。伏古村の勧農係は富山県出身の宮崎濁卑であったが、十勝におけるその指導は21年度で打ち切られた。

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