振り返る帯広

第1回 開拓前後

開拓130年市制施行80年を迎えるにあたり、帯広の歴史を振り返ります。

開拓前の帯広

 晩成社が入殖する前の帯広は、アイヌの人たちが主に川沿いに集落をつくり、狩猟と植物採取中心に、独自の文化を築いていました。
 帯広の語源は、アイヌ民族がオペレペレケプ(川尻がいくつも裂けている所)と呼んでいたものが転訛したものと言われています。
 江戸時代初期には、松前藩が十勝場所を設け、鮭や昆布などの交易を行っていました。
 1800年に、皆川周太夫が十勝内陸部の調査を行い、江戸時代末期には、松浦武四郎の「十勝日誌」により、十勝川流域の原野が肥沃で農業に適していることが、広く知られるようになりました。
 1869年、明治政府は蝦夷地を、北海道と改め、十勝場所を十勝国としました。

晩成社の入植

 道内の多くの地域が官主導の屯田兵により開拓されたのに対し、帯広の開拓は、明治16年静岡県松崎町出身の依田勉三率いる民間開拓結社・晩成社による、民主体によるものでした。
 未開の原野を切り拓く事業は、予想をはるかに超えた過酷なものでした。その後、富山、岐阜など各地からの移民団が続き、帯広の開拓が進められてきました

 

整いつつある市街地

緑ヶ丘公園内のグリーンパークの西側には、開拓当時の帯広の発展を支えた北海道集治監十勝分監の名残の石油庫があります

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現存する最古の建物、十勝監獄(明治36年改称)石油庫

 十勝分監の開庁以前には、釧路分監の囚人によって、大津までの道路が整備され、十勝分監の前身である帯広外役所が現在の帯広神社付近に設置されました。
 明治28年に十勝分監となり、橋や道路、鉄道の建設などの土木工事、郵便局、帯広尋常小学校、十勝公会堂、裁判所などの公共施設の建設などに携わりました。明治の終わり頃、十勝分監は、札内川から、西帯広一帯までの広大な面積を有し、その後、大部分が市街地を広げるなどのために払い下げられました。その結果、市街地(当時の下帯広村)は、街としての基盤が徐々に整い、帯広の急速な発展につながっていったのです。

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