ふるさと見聞録−その他のテーマ

 「広報おびひろ」でほぼ毎月、帯広の自然や歴史について紹介しているコーナーです。
 本ページでも掲載しており、ご覧いただけます。

不思議な交差点 広報おびひろ平成29年11月号

 市内東4条南13丁目に、不思議な交差点があることをご存じでしょうか。市内の幹線道路はほとんどが碁盤の目状に広がっていますが、ここは少しだけ東西の通りがずれています。
 実はこの東西の道路は、南北に走る支庁通を境に、西に広がった市街地と、東に広がった農地のそれぞれの区画の道路を接続した場所なのです。明治25年当時、土地の区画の測り方は、市街地と農地では異なりました。市街地の区画は、60間(約108メートル)四方で区切り、道路幅は11間(約20メートル)。一方、農地の区画は300間(約540メートル)四方で区切り、道路幅は4間(約7メートル)とされました。そのため、道路の設置間隔も市街地と農地では大きく異なることから、市街地と農地の道路が一致することはなかったのですが、この場所だけは、そのずれがわずか11間(20メートル)だったために、少しいびつな交差点としてつながり、現代に至るのだそうです。
 120年余り前に、市街地と農地の境目として設定されたこの場所。わずかなずれですが、戦後、帯広の市街地が急速に発展・拡大していった名残りを見ることができます。(1間=約1.8m)

東4条南13丁目の交差点
東4条南13丁目の交差点

合併60周年 広報おびひろ平成29年5月号

 昭和32(1957)年に、川西村・大正村と帯広市が合併してから今年で60周年を迎えます。大正4(1915)年、帯広町が一級町村制を施行、また同年、上帯広村・幸震村・売買村が合併して大正村になりました。大正村は、現在の川西・大正地区、中札内村・更別村などを含む広い地域で、川西村は大正13(1924)年にここから独立しました。
 帯広町と川西・大正村の境界は、現在の自衛隊駐屯地や弥生通の辺りにありました。昔の「帯広」は、随分狭かったことが分かります。
 1920年代中ごろ、現在の稲田町にある製糖工場付近に集落ができると、将来帯広の市街地とつながるのではないかという議論が起こります。この集落は川西村に位置し、これが合併への議論の端緒となりました。
 戦後、編入や合併の議論が加速し、昭和32(1957)年に帯広・川西・大正の合併が施行されます。自らの地域をどうしていくべきか。合併の是非をめぐり、激しい議論が繰り広げられたことが伝えられています。先人の想いや奮闘が重ねられ、現在の帯広の「カタチ」が出来上がりました。

合併記念パレード(藤丸前)
合併記念パレード(藤丸前)

天狗の飯匕 広報おびひろ平成29年2月号

 「石器」といえば、皆さんは真っ先に「大昔の人たちが作った道具」を連想するのではないでしょうか。しかし、江戸時代にはまだそのような考えは広まっていませんでした。たとえば、写真の石器は江戸時代の本に「天狗の飯匕」と書かれていました。天狗さまが食事に使う匙(スプーン)と考えられていたようです。自然の造形とは信じがたい、けれども人の手で作られたとも思えない品物について、みんなを納得させる話の一つが人智を超えた者の仕業ということだったのでしょう。
 こうした先人の発想に由来して、この石器は現在でも「石匙」という名前が使われています。もっとも、実際にはスプーンではなく、縄文人が携帯用のナイフとして身に付けたものだと考えられています。一方の端にあるつまみ状の突起にひもを取り付けて使っていたようです。ちなみに、北海道では「つまみ付きナイフ」という分かりやすい名前の方が広く使われています。
 つまみ付きナイフは、帯広の遺跡からもたくさん発見されています。この地で暮らした縄文人にとって、最も身近な装備品の一つだったといえるでしょう。

大正3遺跡出土のつまみ付きナイフ
大正3遺跡出土のつまみ付きナイフ
(長さ11.4センチ)

はじめての国体 広報おびひろ平成28年12月号

 百年記念館は、帯広や十勝の歴史に関する写真を収集しています。今回はその中から、昭和34年1月に緑ヶ丘公園で開催された、第14回国民体育大会スケート競技会の写真を紹介します。
 写真では、大勢の人が会場に詰めかけ、熱心に観戦しています。このような規模の公式大会が開催されるのは、帯広市史上初めてのことでした。スタンドや競技用リンクも、この国体に合わせて造られました。当時の新聞からも、国体の準備が急ピッチで進められる様子が読み取れます。そのほか宿泊施設や観光案内所の整備、記念品の発売など、国体成功に向けての意気込みが伝わってきます。
 期間中は約6万人の観客が会場で熱い声援を送りました。ちなみに、このときの帯広市の人口は約10万人。「スケート王国」の土地柄か、市民の注目度も非常に高かったようです。
 昭和60年2月、帯広の森スピードスケート場の建設をきっかけに、このリンクは公式大会の会場ではなくなりましたが、「緑ヶ丘公園市民リンク」として現在も使われています。

国体期間中の特設リンク
国体期間中の特設リンク

歴史的な公園「中島公園」 広報おびひろ平成28年9月号

 昭和17年に市内で2番目に開設された「中島公園」。帯広発祥の地と言われる帯広神社の南側に位置するこの場所には、十勝・帯広の開拓の先人である依田勉三翁の、みの笠姿の銅像があります。依田勉三翁の功績を後世に伝えようと、当時の十勝商工連合会頭の中島武市氏を中心に5年の歳月を経て造られました。食糧に対して敬意を払う象徴として、中島氏の強い思いにより、依田勉三翁がみの笠を羽織った農民姿のものになったと伝えられています。
 中島公園は規模が小さく、遊具などの施設はありませんが、幹線国道38号沿いにも関わらず、静かで落ち着いた雰囲気が特徴です。避暑を兼ねて中島公園を訪れてみてください。先人の思いを感じることができるかもしれません。

公園中央にある依田勉三翁の銅像
公園中央にある依田勉三翁の銅像

夏の氷 広報おびひろ平成28年8月号

 夏の暑い日には、冷たい飲み物や食べ物が欠かせません。また衛生上、食品を冷やすことも重要です。冷凍庫などが普及する以前、帯広ではどのように夏の「涼」や「冷」を用意していたのでしょうか。
 昭和32年ころ、帯広には製氷業者が3軒あり、寒さが厳しい1月中旬から、西帯広や緑ヶ丘にあった専用の採取池で、天然氷を切り出していました。
 切り出した氷は氷室に保管され、6月ごろからさまざまな用途で出回りました。商品を冷やすために魚屋や料理店、アイスキャンディー屋で用いられた他、ウイスキーのロックやかき氷などにも天然氷が使われていました。氷のかたまりで一貫目(3.75キロ)の値段は、店頭売りで30円、問屋へは25円、魚屋・アイスキャンディー屋はくず氷を使用するため15円だったそうです(円の価値は現在と比べておおむね10倍)。夏の最盛期には、1日13トン〜20トンほど消費されました。
 昭和42年7月6日の十勝日報(地元紙)によると、電気冷蔵庫などの普及で、天然氷の需要が頭打ちになったことを伝えています。以降、天然氷は次第に製造されなくなりました。
 冷たい飲み物や食べ物を手に取った際には、かつては冬に仕込まれた天然氷が、夏の帯広に涼しさをもたらしていたことを、ぜひ思い出してみてください。

昭和時代に使用されたかき氷機
昭和時代に使用されたかき氷機
(百年記念館所蔵)

石の矢じり 広報おびひろ平成28年2月号

 矢の先端に付ける鋭い部品を矢じりといいます。矢じりの形をした石器(石鏃)は昔から珍しい石として知られていました。
 奈良時代や平安時代の書物には、雨が降った後にたくさんの石の矢じりが見つかったという出来事が幾度か記されていて、「天から降ってくる不思議な石」と考えた人もいたようです。江戸時代に北海道を探検した松浦武四郎も「十勝日誌」の中で、アイヌの人々からも同じような話を聞いたと触れています。もちろん矢じりは、天から降ってきたのではなく、地面が雨で洗われて出てきたものです。
 矢じりの形をした石器は、縄文時代が始まった1万5千年前頃から現れるので、弓矢もこの頃に発明されたのではないかと考えられています。弓に張った弦(つる)の反発力を利用して矢を遠く、速く飛ばすことができるため、優れた狩りの道具として使われ続けました。 
 ちなみに、武四郎は十勝では十勝石(黒曜石)ばかりが使われていること、ただし硬く鋭利な石を使う点は国の内外を問わずどこも同じといったコメントも記しています。考古学的な見識を備えた人でもあったようです。

縄文時代の矢じり
縄文時代の矢じり(市内遺跡より)

歴史的な公園「緑ヶ丘公園」 広報おびひろ平成27年12月号

 緑ヶ丘公園は、昭和4年に開設された帯広市内で最も古い公園で、今日まで永く市民に親しまれています。
 この公園は、昔「十勝監獄」があった約40ヘクタールの敷地を、当時の帯広町が購入して整備を進めてきました。緑ヶ丘公園の名前の由来は、当時の公園整備に功績が大きかった町議会議員の小泉 碧(みどり)氏の名にちなんだものとされています。
 監獄時代の遺産は、レンガ造りの「十勝監獄石油庫」が帯広市の指定文化財として残されています。また、平成26年に炊事場の跡が発見されたのは記憶に新しいところです。
 園内を見渡すと、「おびひろ動物園」や「児童会館」をはじめ、グリーンパークや児童遊園、パークゴルフ場などが整備されていて、幅広く市民の皆さんに利用されています。
 園路は除雪しますので、冬でも緑ヶ丘公園を楽しむことができます。冬のウオーキングや散策に訪れてみてはいかがでしょうか。

グリーンパークの様子
グリーンパークの様子

電気はいつから? 広報おびひろ平成27年10月号

 帯広ではいつから電気が使われるようになったのでしょうか。
 写真は大正4(1915)年に大通6丁目で開業した劇場「陽気館」です。活動写真や義太夫・芝居などを上演していて、夜はライトアップして人々の注目を集めていました。これが帯広初めてのイルミネーションといわれています。
 その前年に、帯広電気株式会社が木炭による火力発電を始めました。当時の帯広市内を撮影した写真の多くに電線が確認でき、市内各地に送電が行われたことがうかがえます。こうして、照明器具はガス灯、オイルランプから電灯へ変わり、より明るく夜を過ごすことができるようになりました。陽気館のように電灯を集客に利用する施設も出現し、また次第に電気の街路灯が設置され、帯広の夜の風景は様相を変えていきます。その後、昭和3(1928)年には幸震(現在の幸福)・愛国市街に電灯がつくなど、各地に電力が供給されていきます。
 100年ほど前から始まった電力利用。大通6丁目を通る際は、初めて帯広に灯った陽気館のイルミネーションをぜひ想像してみてください。

大正10年頃の陽気館
大正10年ころの陽気館

西二条通りに橋が架かる 広報おびひろ平成27年6月号

 写真は、大正3年(1914年)、西二条通りに初めて丈夫な木造橋が架けられた際の渡橋式の様子です。雨にもかかわらず多くの人が押し掛けていて、よく見るとやぐらに登ってまで見学する人の姿も写っています。帯広駅と国道を結ぶ西二条通りに橋が完成したとあって、人々の注目が集まっていたことが分かります。
 当時の人々にとって、橋の完成は生活の利便性や安全性に直に関わる重要な問題でした。
 帯広川はかつて、市内を大きく蛇行して十勝川に注いでいて、碁盤の目状の道路に橋を架けることは難しい課題でした。また、三日三晩浸水した大正11年の洪水など、市街は何度も水害に見舞われました。橋を架け替えたり、川の流路を変える努力が続けられ、現在に至っています。
 当時とほぼ同じ場所にある現在の西二条橋。普段何気なく通っていますが、百年程前に集まったたくさんの人々に思いをはせるのも良いかもしれません。
大正3年(1914年)、西二条通り
大正3年(1914年)、西二条通り

帯広駅開業110年  広報おびひろ平成27年3月号

 帯広駅は明治38年(1905年)10月21日、逓信省札幌鉄道作業局釧路線の駅として開業し、今年の秋で開業110年を迎えます。
 当時の開業区間は釧路から帯広。まだ芽室方面の線路は開通しておらず、帯広が終点の駅でした。釧路港は道東最大の不凍港(冬も凍らない港)であり、帯広駅の開業によって、1年を通じてさまざまな物資が、十勝から釧路港を経て全国へ運ばれるようになりました。
 写真は開業当日の帯広駅の様子です。祝賀を示す国旗が翻り、ホームには多くの人々が集っています。以来110年間、帯広駅は十勝の玄関口として、今日も多くの人々を迎え、送り出しています。
開業日の帯広駅
開業日の帯広駅

土器の底についたホタテ貝の跡  広報おびひろ平成26年3月号

 先史時代の土器は、形や模様が時期や地域によって変化することが知られていて、この特徴を指標に「○○式土器」という型式名が付けられます。土器の特徴は年代や文化圏を知る上で大きな手掛かりとなります。
 土器の底部にホタテ貝の跡が付く特徴を持つグループは、最初に帯広市暁遺跡でまとまって見つかったことから「暁式土器」という型式名が付いています。
 このタイプの土器は、竪穴式住居に住み、多くの土器が使われるようになった、約9千年前に十勝・釧路を中心に分布しています。
 市内では八千代A遺跡の発掘調査でたくさん出土しました。同じ特徴の土器は道内では胆振・日高地方、さらにサハリンからも見つかっています。
 貝殻の上で土器を作ったために付いたのではないか、など諸説ありますが、真相はわかりません。 この土器は、百年記念館や埋蔵文化財センターで展示しています。ぜひ見に来てください。
土器の底についたホタテ貝の跡
暁式土器の底部についた
ホタテ貝のあと

明治の文豪も口にしたかも?東京で販売された「マルセイバタ」  広報おびひろ平成26年1月号

 依田勉三が率いる晩成社が製造したバターは、「マルセイバタ」と銘打たれ販売されていました。デザインは晩成社の「成」の字をマルで囲み、「マルセイ」としたのです。
 現在、帯広の菓子メーカーがお菓子の包装紙のデザインに「マルセイバタ」のラベルを復刻していて、よく知られています。
 百年記念館所蔵『東洋水産森和夫氏寄贈 晩成社関係資料』は、晩成社のバター販売に関わる文書を多く含む歴史資料です。
 例えば、バター販売が明治40年代に本格化したことや、豊頃駅から秋葉原駅に運ばれ、東京上野かいわいの食料雑貨店に卸したことなど、当時の販売の実態が書かれています。
 卸し先の一つで東京本郷に店を構える青木堂は、夏目漱石の『三四郎』に登場したり、森鴎外一家がお菓子を求めた有名な食料雑貨店兼カフェでした。
 十勝でつくられた「マルセイバタ」は遠く東京へ輸送され、もしかしたら明治の文豪たちも口にしていたのかも知れません。
マルセイバタのラベル
マルセイバタのラベル 

世界最古の鮭鍋!?大正3遺跡の爪形文土器  広報おびひろ平成25年11月号

 今年の春、大正3遺跡の縄文土器が、魚を煮炊きした証拠が残る世界最古の土器として報道され、大きな話題になりました。
 この土器は、平成15年(2003年)の発掘調査で発見されたもので、爪で突いた模様で表面が飾られていて、爪形文土器と呼ばれています。発見当時も約1万4千年前に作られた道内最古の土器として注目を集めました。
 再び脚光を浴びることになったきっかけは、イギリスの有名な科学雑誌に日欧の研究チームによる分析結果が掲載されたことでした。日本全国の縄文時代初期の土器に付いていたおこげを分析したところ、大正3遺跡の土器が水域にすむ生き物を煮炊きした証拠となる脂を検出できた最も古い土器だったのです。別の分析では、海の生き物の可能性が高いという結果も出されました。
 大正3遺跡のある大正町は、海から遠く離れています。内陸までやってくる海の生き物、おそらくはサケ科の魚が土器で調理されたのだろうと推定されています。
平成15年に発見された爪形文土器
平成15年に発見された
爪形文土器

知られざる幸福駅の歴史 広報おびひろ平成25年10月号

 鉄道の廃止後も観光スポットとして人気の旧国鉄広尾線幸福駅。長年親しまれてきた待合室が老朽化により改修される事で、再び注目を集めています。
 駅の看板には、昭和31年(1956年)開設と書かれていますが、これは正式な「駅」に昇格した年で、これ以前から「幸福駅」の歴史は始まっています。
 旧国鉄広尾線の帯広〜中札内間の開業は昭和4年で、2年後の昭和6年には大正村長名で「幸震(後の大正)中札内間ニ停車場設置ノ請願」が国会へ提出されました。以後、請願を繰り返し出しますが、すぐには実現しませんでした。
 村の願いがようやく形へと動き出したのは昭和25年、国鉄に鉄道管理局の制度ができ、各管理局の判断で「乗降場」を設置できる制度ができてからです。この年の1月、釧路鉄道管理局が幸福に「臨時乗降場(後の仮乗降場)」を開設し、列車が停車する「駅」が始まりました。
 幸福駅は、地元の人々によるたゆみない請願運動が、二十年の歳月を経てようやく実った、悲願の駅なのです。
 改修工事で生まれ変わる幸福駅。あまり知られていない駅の歴史と地域の思いも、後世へ語り継いでいきたいものです。

改修工事中の旧広尾線幸福駅
改修工事中の旧広尾線幸福駅

時の彫刻 広報おびひろ平成25年8月号

 上清川町河畔林は、戸蔦別川が岩内川と合流した地点のやや下流の左岸側に広がる20.2ヘクタールの帯広市自然環境保全地区です。
 かつて戸蔦別川の川底や中州だったところに、川に近い側からヤナギ類、ヤチダモやハルニレ、イタヤやシナノキなどが立ち並ぶ、このあたりの典型的な河畔林です。開かれた場所が多い平野部に、山間部に特徴的なアサダやオヒョウ、高さ30メートルに及ぶケショウヤナギなどが見られる森が今でも残されていることは、とても貴重と言えるでしょう。
 かつての川の様子をうかがい知ることができるこの森は、戸蔦別川の自然が今もなお刻み続ける時の彫刻なのかもしれません。

上清川町河畔林
上清川町河畔林

川西C遺跡-平成24年度に発掘調査しました 広報おびひろ平成25年4月号

 川西C遺跡は、稲田小学校の東側から稲田緑地、稲田保育所あたりまでの高台に広がる遺跡です。この遺跡は40年以上前から知られていましたが、発掘調査が行われたのは平成になってからで、旧石器時代から縄文時代にかけての土器や石器類がたくさん見つかりました。特に、約2万5000年前に残された黒曜石製の道具や一緒に見つかった顔料の材料と推定される赤や黒の鉱物が注目を集めました。

 平成24年、発掘調査が十数年ぶりに行われることになり、土器や石器類が約1万4000点見つかりました。これらのほとんどは6500年くらい前に残されたものです。この頃の土器は、粘土に繊維を多量に混ぜた分厚い作りで、底はとがり気味、表面を飾る縄は太めのものが好まれるといった特徴があります。また、石器には黒曜石の矢じりやナイフなどの道具のほか、植物をすりつぶす道具などが見られ、文化の移り変わりや当時の生活を知る手掛かりを得ることができました。

川西C遺跡(発掘調査の様子)

発掘調査の様子

川西C遺跡(土壺)

 土壺の破片を取り上げた直後の様子
 左が本物で、右は土にスタンプされた縄の模様。長い間埋まっていたことを物語っています。

縄文時代の落し穴 広報おびひろ平成22年4月号

 十勝の縄文時代の遺跡からは、細長い溝のような落し穴が発見されることがあります。多くの場合、一定の間隔で列をなすように設置されています。
 道内にはだ円形で、底に杭(くい)の跡を残す、いかにも落し穴といった例もたくさんあるのですが、日高山脈より東では細長い形のものしか作られていません。

 落し穴は鹿の捕獲が目的だったと考えられています。しかし、穴に落とすだけが狙いだったと考えるには不可解な形をしているようにも見えます。鹿が穴に足をとられ、転倒するなどして逃げられなくなればそれでよかったのかもしれません。追い込み・待ち伏せ猟で利用された可能性も考えられそうです。

 十勝で初めて縄文時代の落し穴が発見されたのは、西20条南6丁目にある宮本遺跡です。昭和58〜60年の調査で13基の落し穴が発見されました。宮本遺跡ではその後、さらに6基の落し穴が発見されています(写真)。
 十勝の縄文人が落し穴猟を始めたのは6千年前以降のことです。しかし、4千年前ごろには廃(すた)れてしまったようです。

宮本遺跡の落し穴(平成5年の調査)

宮本遺跡の落し穴(平成5年の調査)

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